あわいを往く者

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九十九の黎明 第四章 祈りの丘

  
  
 パヴァルナの町なかを流れるヘパティツァ川は、この地方で一番大きな川だ。遥かなる天険の万年雪をみなもとに、山肌を削り、時に土砂を積み重ね、そうしてパヴァルナの少し下流で東から南へ進路を変えると、チェルナ川と並走するようにして南海へと注ぎ込む。
 雨の少ないパヴァルナにおいて、この川は人々にとっての命綱であった。飲用を始め、炊事洗濯に必要な水を皆にもたらすのは勿論のこと、はたを潤し、小麦をひき、鍛冶屋のふいごを働かせるのだ。
せきというのは、町の西、城壁の外にある堰堤えんていでね。川の水を農地へと引き込むための水門が作られているんだ」
 城を出て北へ、ヘパティツァ川に架かる橋を渡ったエドムント一行は、川沿いを西に向かって歩いていた。風は涼しいが、降り注ぐ日差しは間違いなく夏のもの。緩い上り坂をゆくエドムントの額には玉のような汗がぽつりぽつりと浮かび上がっている。
「それにしても、暑いな」
 荒い息で額の汗を拭うエドムントの脇で、彼の近侍が溜め息をついた。
「ですから、馬をお使いになれば、と申し上げましたのに」
 最初エドムントは、くだんの堰まで馬で行くつもりだった。だが、近侍に自分とモウルの分の馬を用意するよう言いつけるエドムントに対し、モウルが「徒歩がいい」と申し出たのだ。
「水利に関わることでしたら、問題があるという堰だけでなく、その周辺の状況も広く見ておくべきだと思います。となると、馬よりも徒歩のほうが、辺りをゆっくりと注意深く観察することができて良いでしょう」
 何が問題解決の手掛かりになるか分かりませんから、とモウルが微笑むのを見て、エドムントも納得したようだった。「宜しいのですか」と心配そうに問いかける近侍を「たまには散歩もいいもんだ」と一蹴し、……そして先刻の台詞に至るというわけだ。
 兄であるクリーナク王に比べて、エドムントのほうが少しばかり恰幅が良かった。「たまには散歩も」との言葉もあったように、普段はまとまった距離を歩くことなどあまりないのだろう。モウル達の少し後ろを歩きながら、ウネンはそんなことをつらつらと考えていた。
「つまり、堰堤で貯水池を作って、そこから農業用水を取水している、ということですね?」
「そうなんだ」
 モウルにいざなわれて、エドムントが説明を再開する。
「一つ目の水門で、川の本流から農業用水を分け、それから二つ目の水門で、僕の土地と、その他の土地とで、水を分けているんだ」
 土地を所有する人々は、領主の庇護を受ける代わりに、その礼として土地の広さに見合った貢租を領主に対して支払っている。パヴァルナでは、堰を作って、そういった農民保有地と領主の直営地とで農業用水を分けているとのことだった。
「それが、どうも先月あたりから、僕の農地への水の流れが悪くなっているみたいなんだよ」
 悪くなっている「みたい」、というのは、どういうことなんだろう。ウネンが疑問をいだくのとほぼ同時に、モウルが「『みたい』とは、どういう意味ですか?」と問うた。
「いや、水門に羽根車を設置して、水量を測ってはみたんだが、例年に比べて特に水の量が減っている様子ではなさそうでね。なのに、今年は明らかに作物の育ちが悪い。農地の中を流れる用水路の水の深さも、目で見て分かるほどに浅くなっている。そういう状況なんだ」
 ふう、とエドムントが大きく息をつく。
「もともとこの辺りは、王都なんかと比べたら雨の少ないところではあるのだけれど、先月は特に酷かった。一滴も雨の降らない日が二週間以上も続いた時があって、いっときは、川の水の取水制限をせねばならなくなるほどだった。僕の土地の水が減ったのは、その頃からのようなんだ」
「で、私に、その原因を探ってほしい、と」
「ああ。現時点で水が減ってしまっているのも問題だが、実は、今日を入れてもう十日間も晴天が続いているんだ。これでまた、更に水が減るようなことが起これば、今年の夏季の収穫は悲惨なものになるだろう。そうなる前に、魔術師殿のお力で、なんとか事態を収めてもらえないだろうか」
 俄然力が籠もるエドムントの声とは対照的に、モウルが躊躇いがちに言葉を返す。
「最善は尽くしますが、良い結果をお約束できるかは……」
「なあに、魔術師殿なら、絶対解決してくださると信じているよ!」
 これはまた、大変なことを随分気軽に頼んでくるものだ。思わず肩を落としたウネンの右側から、似たような調子の溜め息が降ってくる。
 ウネンとオーリは互いに顔を見合わせてから、前をゆく三人に聞こえないように、揃って「やれやれ」と息をついた。
「領主様の土地以外では、水量はどうなっているのですか?」
「そちらのほうも、やはり羽根車で水の量を測ってみたけれど、まったく例年どおり、変化なしなんだ」
「つまり、二つの水門にも他の土地にも問題は無く、領主様の土地だけが異常に見舞われている、と」
 なるほど、と頷いて、それからモウルは少し音調を落とした声で、エドムントに問いかけた。
「魔術師をご指名なさったということは、領主様は、今回の出来事に魔術が関わっている、とお考えなのですか」
 それに対するエドムントの答えは、甚だ頼りないものだった。
「いや、そこまではっきりと考えているわけではないんだけれど……、でも、まったく原因が分からないものでね、きっとこれは、人智を超えた神の御業に違いないんじゃないか、と思ってね……」
「……とまれ、詳しくは堰に着いてから、ですね」
 素晴らしい愛想笑いとともに、モウルが会話を終わらせる。今はこれ以上話をしても意味がない、と考えたに違いない。誰も見ていないのをいいことに、ウネンは思うさま口元に苦笑を刻んだ。
 領主直営地内の用水路の水量が減ってしまっているのが事実だとして、取水部分での水の量に変化が見られないということは、水門から用水路に至るまでのどこかで水が失われている可能性が高い。用水路の水量に異常が生じたと思われる時期に、今までとは違う出来事がなかったかどうか。それと、周囲の地形についても、詳しく調べる必要があるだろう。川の水以外に、地下水や湧き水も関わっている可能性も考えなければ。
 ウネンは、意識を自分の外側に切り替えた。呼吸を整え、ゆっくりと周囲の町並に視線を巡らせる。民家や木々の隙間から、町を取り囲む石積みの城壁が見え隠れしていた。その更に向こう側、緑なす稜線が紺碧の空を幾重にも切り取っている。肝心の農地は、町の外に出なければ見えそうにない。
 そういえば、と、ウネンは再び前方に目を向けた。
 馬をやめて徒歩で周囲を観察する、と言っていたわりに、城を出て以来ずっと、モウルの注意はエドムントのほうばかり向いている。
 ウネンの脳裏に、初めて会った頃のモウルの様子が甦った。欲しい情報を引き出すべく、ウネンの一挙一動、僅かな表情の変化すら見逃さずに、的確に獲物を目的の場所に追い込んでいく、あの手練手管を思い出した。
 あのわざには、相当な集中力を要するに違いない。そして今、彼はエドムントにそれを試みているのだろう。自分に有利に事を運ぶために。
 ということは、モウルは、オーリやウネンに周辺の観察を任せるつもりだったのか。それならそうときちんと言ってくれないと、もしもウネン達がそのことに気がつかなかったら、一体どうするつもりだったのだろうか。そこまで考えたところで、ウネンは、一つの可能性に思い当たった。
「……まさか、ね」
 口をついて零れたウネンの呟きに、オーリが「どうした」と声だけで応える。
「徒歩で行く、ってモウルが言ったのって、まさか、ぼく達に気を遣ってだったのかな、とか……」
 馬が用意されるはずだったのは、エドムントとモウルの二人分だけだった。もっとも、用意されたところで、ウネンは乗り方を知らないのだが。
「まさか」
 素っ気ない返答とは裏腹に、オーリの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
  
  
 大山脈を望む町の西門を出て、再度川縁かわべりへと戻れば、少し上流の流れの中に、石を積んで作られた段差が見えた。
 堰き止められた清流は、大人の背丈ほどの高さのその石積みを乗り越え、滝を成して、また下流へと流れてゆく。
「あれが堰だよ」
 エドムントの先導で少し急な坂を登り、石積みに連なる堤の上に出たウネン達は、目の前に鏡のようなおもての貯水池を見た。
 堰を辿って視線を対岸へやれば、小さな船着き場と小舟が一艘。同じものは、ウネン達のいる北岸にもあった。南岸と異なっているのは、小舟が係留されているすぐ横に、木で作られた立派な水門があることだ。
 水門の先は、直径五メートルほどの小さな溜め池になっていた。向こう岸には、ひとまわり小さな水門が二つ、互いに少し距離をあけて並んでいる。
「あれが、農業用水を分けているという水門ですね」
「そうなんだ」
 エドムントの返事を待たずに、モウルはふらりと歩き始めた。二つ並んだ水門をじっと見据え、草むらの中を進んでいく。
 いち早くオーリが、そしてウネンが、モウルのあとを追った。少し遅れてエドムントと近侍が、「魔術師殿?」と慌てながら続く。
 目的地に到達したモウルは、ゆっくりと右手を水門に伸ばした。
 川と水路と、高く低く流れる水音が、風に乗って渦を巻く。合間に耳をくすぐるのは、葉擦れの音に、鳥の声。水面にさざ波が立つたびに、日の煌めきがあちらこちらで舞い踊った。
 閉じていた瞼をそうっと開き、モウルが小さく息をついた。
「今、この一帯で魔術が発動している気配は、ありませんね」
 ウネンも内心で頷いていた。モウルが術を使う際の、あの〈囁き〉が、今は一切感じられなかったからだ。
「本当かい……?」
 エドムントが、眉をひそめてモウルを見た。
「ええ。もっとも、現在ではなく過去に何か術をかけられ、そのせいで今、水門や水路に異常をきたしてしまっている、という場合は、私には感知できませんけれど」
「貯水池やこの溜め池に潜ってまで念入りに調査をしたのだが、水門にも水路そのものにも、何も問題はないそうなんだ。それなのに、僕の土地を潤す水は少なくなっているんだよ」
 エドムントの声には、先ほどまでは見られなかった明らかな焦りが含まれていた。
 対するモウルは、いつもどおり、飄々としたものだ。
「灌漑設備に異常が無いにもかかわらず、領主様の土地へ流れ込む水が、本当に少なくなっているのならば、水そのものに何か働きかけがある、という可能性が考えられますが……、でも、少なくとも現時点では、この付近に魔術の気配は感じられないな……」
 モウルの語りは、次第に独白の様相を呈してくる。
 神妙な顔で黙って耳を傾けていたウネンだったが、とうとう我慢しきれずに、モウルに質問を繰り出した。
「魔術の気配って、どういうもの? 何か聞こえるとか?」
「いんや。本当に『気配』としか言えないようなものなんだよね。例えるなら、脳みその中や身体の中を、風が撫でていくみたいな感じ」
「風」
 ジェンガ翁も、魔術に絡んで「風」という単語を使っていた。「風が囁いている」と。
「だから、あまり複雑なことは分からない。水使いならば、もっと精度良く把握できるんだろうけど」
 モウルの言葉を受けて、エドムントが「実は」と口を開いた。
「実は……、我が町に、水の魔術師がいるんだよ」
 眉間に刻みかけた深い皺を、またたく間に消し去って、モウルがエドムントを見やった。
「その方には、この件を相談なさらなかったのですか?」
「勿論相談したさ。彼には異常が発生してから、何度もここに足を運んでもらっている。最後に話をしたのは先週だね。だが、彼曰く、心当たりも無ければ、異常もない、と……」
「どういう方なんですか? その魔術師は」
 ウネンの傍らで、オーリがそっと嘆息する。
 冷静さを装ってはいるものの、その実、モウルが好奇心ではちきれそうになっていることが、ウネンにもよく分かった。
「名前はノルというんだ。年齢は、僕よりも一歳だけ若くてね。生まれも育ちもパヴァルナで、町に愛着があるからか、僕が城に来るように言っても、一向に首を縦に振ってくれないんだよ。『自分のちからは、広く皆のためにあるべし』なんだそうだ」
 ひょいと肩をすくめてから、エドムントは話し続ける。
「城に住まなくともいいから、と、屋敷を用意しようとしても、全然つれなくてね。必死で頼み込んだら、『水車の管理人ならなってもいい』なんて言って、本当に水車舎に引っ越してしまったんだよ。どうだい、変わっているだろう?」
 エドムントがこの町の領主ということを考えると、この場合の「水車」とは、粉挽き場の水車を指しているに違いない。
 沢山の小麦を一度に粉にすることができる大掛かりな粉挽き機は、建設するのにも運用維持するのにも多くの資金が必要だ。そのため大抵の町では、領主や、それに準ずる有力者が、粉挽き業務を独占していることが多かった。町の人々は、そういった粉挽き場に小麦を持参しては、管理人に使用料を払って粉に挽いてもらうことになる。
 水車の使用料は暴利を奪われるというほどではなかったが、それなりの頻度で繰り返される出費となれば、払う側の人間にとっては心穏やかなものではない。そんなわけで、粉挽き人や水車の管理人が町の人々に好かれることはあまりなかった。
「広く皆のために」と公言し、自ら人々が嫌がる仕事に就こうとする。モウルやジェンガのせいで、魔術師というものに偏った印象をいだきつつあったウネンは、そのノルという魔術師に会ってみたくなった。
「確かに、変わっているといえば変わっているかもしれませんが、そもそも魔術師なんてものは、変人でなければ務まりませんからね」
 自虐というよりも、当然の真理とばかりにモウルが言い切る。それから彼は、底意地の悪い笑みをすまし顔の奥に糊塗ことして、独りごちた。
「水の魔術師ということは、水を操るのはお手の物、か……」
 エドムントが小さく息を呑んだのち、慌てたように首を横に振る。
「いや、彼は変わり者ではあるが、不誠実な人間ではない」
「領主様がそう仰るなら、そのとおりなんでしょうね」
 モウルはにっこりと笑みを浮かべて、そうして笑顔のままで言葉を継いだ。「ところで、その水車舎って、どこにあるんですか?」