あわいを往く者

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九十九の黎明 第四章 祈りの丘

  
  
 なだらかに傾斜する草原のあちらこちらで、羊の群れが草を食んでいる。視線を遠くへやれば、若草色の山肌をふちどる、森の常盤のその向こう、どこまでも深い紺碧の空に身も心も吸い込まれそうだ。
 最後の町を出てからもうずっと、長い上り坂がだらだらと続いていた。少し歩調を落とした馬の足音ばかりか、大地を噛む車輪の音までもが、心なしか疲れて聞こえる。馬が潰れてしまわないだろうか、と、傾いた景色を見ながら、ウネンは内心ではらはらしていた。
 幸い何事も起こらぬまま、日が中天を越えた頃になって、ようやく馬車はパヴァルナの町の門に到着した。
 門番の敬礼に見送られて城壁の中へと進み入るなり、これまでの町々とは少し趣の違った景色が窓の外に広がった。
 山肌をなぞるようにして緩やかに波打つ街路は、王都の大通りと同じぐらいの道幅があった。広々とした道の両側には、急勾配の大きな屋根に、一階ごとに張り出した付け庇。建物の形状も個性的だが、それよりもウネンの目を引いたのは、壁の大部分が木材によって作られていたことだった。イェゼロを始めとする他の町でよく見かける、白い漆喰の壁もあることにはあるが、その割合は少なく、煉瓦や石を積んだ壁となると、家の土台部分にちらほらと見られる程度だ。
 窓にかぶりつくウネンの隣で、ナヴィが感嘆の溜め息を漏らした。
「なるほど、これが噂に聞く、パヴァルナの校倉ね」
「校倉、とはなんですか?」
 勢いよく振り返ったウネンに、ナヴィが「木で作られた壁のことよ」と微笑んだ。
「昔に読んだ『大山脈紀行』という本に書いてあったのよ。井桁いげたに組んだ木材を積んでいって壁を作るの。その本には挿絵は無かったんだけれど、私が想像していたとおりだったわ」
 ナヴィは更に、家々の雨戸にえがかれた花や蔓の模様を見ては、「なるほど、これが」と喜んでいる。
 ふと、ウネンは、先日自分がダーシャに言った言葉を思い出した。
『知識が増えると、同じ場所でも違う景色が見えるようになるよ』
 ナヴィは今、その豊富な知識で、ウネンが見ているものとは違う景色を見ているのだろう。
 パヴァルナ領主の頼み事とやらがどんなものかは知らないが、問題解決にあたるモウルとは別に、ウネンは、一連の出来事についての詳細な報告書を作るよう、ハラバルから申し渡されている。パヴァルナ滞在中にナヴィの授業を受ける時間がどれだけ確保できるか、あまり期待はできないけれども、少しぐらいは「文字の世界」でも遊ぶことができたらいいな、と、ウネンは胸の中で呟いた。
  
  
 エドムント公の城は、町の南西、一番の高台の上にあった。堀は無く、石を積み上げて作られた城壁がぐるりを取り囲んでいる。敷地内に入れば、建物の壁はどれも光り輝くほどに白い漆喰で塗り固められており、木造の家の集まった茶色い町並との対比が面白い。
 四方に尖塔を備えつけた、天く建物の前で馬車が止まるのを待って、建物の入り口から、クリーナク王とよく似たかんばせの、王よりも若干歳若い男が姿を現した。
「叔父様!」
「ダーシャ! よく来てくれたね!」
 両手を大きく振り開いたエドムントの胸に、ダーシャが飛び込んだ。脇で控えていた侍従が、蒼白な顔であるじの背後へと駆け寄る。ダーシャもろともエドムントが転倒してしまわないか危惧したのだろう。
「叔父様、ジョナーシュは?」
「お友達の家に遊びに行っているんだよ。夕方には戻るだろう」
「そんな、ひどいわ!」
 はっはっは、と闊達に笑ってから、エドムントはダーシャを地面に下ろした。
「ご無沙汰しております、エドムント様。陛下から先に連絡が届いているかと思いますが……」
「ああ、スィセル、久しぶり。元気そうじゃないか。早馬なら来たよ。やっぱり旅行どころではなくなったんだな。皆に会えるのを楽しみにしていたんだが、残念だ」
 エドムントは柳眉を僅かに曇らせたものの、すぐに相好を崩して、手元に立つダーシャを見やった。
「けれど、ダーシャだけでも来られて、本当に嬉しいよ。ジョナーシュも、姫が来ると知って大喜びしていたんだよ」
「嘘だわ。お友達と遊ぶのにお忙しいんでしょう?」
 ぷう、と頬を膨らませるダーシャの頭を、エドムントが優しく撫でる。「まあ、そう言わないでやっておくれ。姫がパヴァルナに来てくれる、と知る前になされた約束だったんだよ」
 エドムントは、ダーシャに向けた苦笑を収めると、あらためてウネン達に向き直った。
「何はともあれ、ダーシャを無事送り届けてくれてありがとう。そちらが、国語の先生だという、モラヴェツ家のお嬢さんだね。君が、僕が待ち望んでいた魔術師殿、と。そして――」
 そこで一旦言葉を切って、ウネンを頭のてっぺんからつま先までねめまわして、それからエドムントは「ふむ」と顎をさすった。
「――そして君が、ハラバル先生の代理かい。なるほど、これは確かに、『姿形で人となりを判断なさりませぬよう』と、先生がわざわざ手紙に書くはずだ。前の手紙で、先生のところに十五歳の若い助手が来たとは知っていたが、まさかこんなに小さいとは……」
 ふむ、ふうむ、と感心したように頷くエドムントの袖を、ダーシャが思いっきり引っ張った。
「だめよ、叔父様、レディをそんなじろじろ見るなんて失礼じゃない!」
 エドムントが、「えっ」と目を見開いて、もう一度ウネンをしげしげと見る。
「え? 女の子? え? 先生の手紙には、そんなことは一言も……」
「叔父様」
 エドムントは、ダーシャに「分かったよ」と微笑みかけてから、ウネンを正面から見て姿勢を正した。神妙な顔で、「申し訳ありませんでした、お嬢さん」と軽く膝を折る。
「言い訳するわけではないけれど、違和感はあったんだよ。男の子にしては、顔立ちや雰囲気が柔らかいというか、優しいというか……」
「叔父様!」
「分かった、分かった。ご婦人の見目をどうこう言ってはいけないな。もうこの話はやめにしよう」
 抗議のふくれっ面を見せるダーシャを軽くいなしながら、エドムントは傍らの侍従を振り返った。
「代理殿が女性となれば、使っていただく部屋を再調整せねばな。至急バランに知らせてきてくれ」
 分かりました、と、侍従が駆け出していく。
「さて、いつまでもこんな外で立ち話をしていては、落ち着かないだろう。さっさと中に入るとしようか」
 エドムントがそう言うや否や、いつの間に控えていたのか、馬車の陰から馬丁や使用人がわらわらと姿を現した。ダーシャ一行のうち、馬と、使用人達と、二人の兵士が、それぞれの案内人を得てあちらこちらへといざなわれていく。
 残った六人――姫と国語教師と王の近侍、そしてウネンとオーリとモウル――に向かって、エドムントは屈託ない笑顔で両手を振り開いた。
「ようこそ、我が城へ!」
  
  
  
「基本的に、僕は、非社交的な人間なんだ」
 肌寒くすら感じられる、ひんやりと清々しい朝の空気の中、モウルがぶつぶつと愚痴を呟いている。
「だろうな」
「そうじゃないかと思ってた」
 オーリとウネンがほぼ同時に相槌を打つ。
 パヴァルナの城の、居館を出てすぐの中庭。約束の時間にはまだ少し早いせいか、辺りには人っ子一人いない。
 平然と頷いたウネン達に、モウルが、恨めしそうな視線を突きさした。
「分かっているのなら、なんで僕一人を、人身御供に差し出すようなことをしたんだよ。大勢を相手に何時間も愛想笑いを振り撒くとか、一体何の拷問だよ……」
  
 昨日、パヴァルナの城に入ったダーシャ姫一行は、応接間に通されて間もないうちに、エドムントから晩餐会の誘いを受けた。
「ダーシャの一人旅成功のお祝いと、皆の歓迎を兼ねて、杯を傾けようじゃないか。パヴァルナに避暑に来られている名だたる方々も幾人かお招きしているんだ」
 エドムントの話を聞きながら、ウネンは、王都を出発する前にハラバルが助言してくれたことを思い出していた。
『おそらくエドムント様は、皆様がパヴァルナに着いた当日か、遅くとも次の日には、歓迎の宴をご用意なさると思います』
 ハラバルは、そこで一旦言葉を切ると、ウネンの顔をじっと見つめた。
『気が進まない場合は、エドムント様が宴に出席するよう仰られた時に、すかさず、こうお言いなさい――』
「――恐れながら、エドムント様。ぼ……私は、ハラバル先生の命によって、今回の旅行で見聞きしたことを全て、報告書にしたためなければならないのです。つきましては、皆様が晩餐会に出られている間、部屋に残って仕事をすることをお許しいただけないでしょうか」
 ウネンの視界の左端で、モウルが勢いよくこちらを見るのが分かった。
 エドムントは、少し大げさに両眉を跳ね上げたのち、「それは残念だ」と肩を落とした。
「ハラバル先生の命令ならば、仕方がないな。先生、怒らせると怖いから」
 何かを懐かしむような表情を浮かべたエドムントだったが、すぐに態度を切り替えて、今度はモウルのほうへ顔を向けた。
「魔術師殿は、勿論参加してくれるんだよね」
「え、あ、私は……」
 不意を打たれて一瞬だけ口ごもるモウルの袖を、いつの間に横に来ていたのか、ダーシャが可愛らしく引っ張った。
「モウル様は、わたしと一緒に出てくださいますよね?」
「生憎と、高貴なお集まりに相応しい服を持ち合わせておりませんゆえ……」
 申し訳なさそうに微笑んだモウルの退路を、鷹揚な声が見事に塞いだ。
「なあに、服ぐらいいくらでもこちらで用意するよ」
「えっ」
「ありがとう叔父様! モウル様、良かったね!」
 ダーシャばかりか、スィセルやナヴィまでもが、満面の笑顔をモウルに向ける。
「いやあ、ダーシャ様とナヴィ様を私一人で介添えエスコートするのは、無理があるように思っていたんですよ。モウル様がご一緒してくださるなら、心強いです」
「馬車でのように、また興味深いお話を沢山聞かせてくださいね」
 そうして、昨晩、モウルは「名だたる方々」とともにテーブルを囲むことになったのだった……。
  
「……二人して、さっさと安全圏に逃げ出してさ。ほんっと、薄情なんだから」
 唇を心持ち尖らせて、モウルが肩を落とす。
 またも、ウネンとオーリは同じ間合いで弁解を口にした。
「だって、報告書が」
「俺は招待客の頭数に入っていないようだったからな」
「まあ、確かに、今回のことは、僕も仕方がないなとは思ってるけど」
 仕方がないと言いつつも、モウルの眉間の皺は深くなる一方だ。
「そりゃあ、確かに僕は、喋ること自体は嫌いじゃないさ。だからって、別に、いつでもどこでも誰とでも喋るのが好き、ってわけじゃないんだからね。王城の内郭に僕一人を放り込んで、お偉方との面倒なやりとり全部押しつけるとか、なんでもかんでも僕に丸投げし過ぎなんじゃありませんかね、オーリくん」
 どうやらモウルは、未だにオーリが自分を置いて近衛兵を志願したことを納得していないようだ。両手を腰に当て、オーリを睨みつけている。
 と、オーリが、静かに息を吐き出した。
「ああ。すまないな、と思っている」
 モウルの目が、ほんの一瞬、見開かれた。
「それと、有難いな、とも」
「……まあ、解ってくれてるんだったら、いいんだ」
 オーリから僅かに視線を逸らして、モウルが口をつぐむ。
 会話の行方を黙って見守っていたウネンだったが、ふと他愛もない疑問を思いつき、モウルのほうに向き直った。
「ってことは、王都を発った日、モウルがずっと馬車の中で寝てたのって、もしかして……」
「そうさ」
 モウルが、どこか投げやりな口調とともに肩をすくめた。
「姫様はなんとでもなるとして、初対面の、どんな性格なのかもまったく分からない人間と、あんな狭い密室に放り込まれて、しかも、一切へまが許されない状況で、僕は一体どうすればいいんだ、って話だよ」
 ウネンが「ああー」と声を漏らした時、居館の方角から砂利を踏む足音が聞こえてきた。
「待たせたね。いやはや、宴の翌朝はどうも調子が出なくて困るよ」
 三人が振り返った先には、近侍を連れたエドムントの姿があった。朗らかな笑みを浮かべて、真っ直ぐウネン達――いや、モウルの前に、やってくる。
「善は急げ、と言うからね。朝早くからすまないが、少し付き合ってはもらえないだろうか」
「どういった問題が生じているのですか?」
 よそゆきの顔になったモウルに問われて、エドムントが溜め息とともに顎をさすった。
「問題があるというのは、町外れにあるせきなんだよ。とにかく、一度一緒に来てくれるかい」