あわいを往く者

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九十九の黎明 第四章 祈りの丘

  
  
  
「結局、あの修道士の言うことって、『ヘレーさんは三箇月の間教会に居た』『ヘレーさんはとても物知りだった』『ヘレーさんと色々話ができて楽しかった』『ヘレーさんの弟子にしてほしかったのに断られた』『ヘレーさんと一番仲が良かったのは講談師だった悔しい悔しい』って内容の繰り返しで、ヘレーさんの動向については、知らないも同然だったんだよね……」
 床に置かれたランプが頼りなげな光を振り撒く中、壁際の長持に腰をかけたモウルが、一旦言葉を切って、大きな溜め息を吐き出した。かったるそうに足を組み直し、やれやれとばかりに肩をすくめる。
「で、肝心のヘレーさんが町を出ていった理由にしても、『全部あの講談師のせい』と、思考停止しているわけだから、もう、どうしようもないというか」
 モウルが肩を落とすと同時に、足元のランプの炎が揺らめいた。あけ放された窓から吹き込んできた夜風が、狭い部屋に籠もる熱気をふわりと払い、机や棚のそこかしこに積まれた紙の束を揺らして、再び窓から去っていく。
「修道士が役立たずだったという話は、もう充分に理解したから、どうしてあんた達が俺の部屋で寛いでいるのか、そろそろ説明してくれないかな」
「それは、君が僕達を部屋に招き入れてくれたからに決まってるでしょ」
 にっこりと微笑んだモウルのすぐ目の前には、部屋の主である講談師のタセイが、不貞腐れた表情で寝台に座っていた。
 膝を突き合わせて睨み合う二人を挟むようにして、窓側にオーリが、扉側にウネンが立つ。満員の部屋の中を、一陣の風がまた、ふるりと円をえがいていった。
「用が済むまで帰らない、って言われたら、部屋に入れるしかないだろう? 魔術師、しかも領主のお客を、夜の間ずっと部屋の前に立たせるとか、いい噂話の種になっちまう」
 俺は、自分についての噂話を集める趣味はないんだ、とタセイがこれ見よがしに肩を落とす。
 修道士の嘘を暴いたその日の晩、ウネン達三人は、タセイの借りている部屋の前で、仕事帰りの彼を待ち伏せしたのだ。
「いい加減、眠いんだけど」
「奇遇だねえ、僕もとても眠いよ。だから、さっさとヘレーさんについて知っていることを教えてくれないかな」
 モウルの笑顔には一点の曇りも見当たらないにもかかわらず、その印象は、薄ら寒いの一言に尽きた。コレと平然と対峙していられるタセイの豪胆さに、ウネンは密かに舌を巻いた。
「教えられるようなことは何も無い、って言ったら?」
「何も無いわけがないよね」
 そう言って、モウルが右手に立つオーリを見上げる。
 仏頂面が頷きとともに重い口を開いた。
「一昨日の晩、お前が寄席で語ったあの異聞逸聞は、俺達に聞かせるためのものだったんだろう?」
「うわ、喋った」
 オーリに向かって大袈裟に驚いてみせたのち、タセイがにんまりと笑顔を作る。
「良い声だなあ。黙ってるの、勿体ないって」
 思いもかけない褒め言葉を受けて、オーリの眉が困惑を刻んだ。
 モウルが、再び黙り込んでしまったオーリに溜め息を投げかけてから、正面に視線を戻す。
「君は、あの異聞逸聞で、僕らがヘレーさんと同じ範疇に属する人間だということを確認したかったんじゃないかな? ヘレーさんからどういう話を聞いたのかは知らないけれど、あの時君は明らかに僕らを意識して、オマケの小話を付け足したでしょ」
「さて、どうだろうね」
「もしも君が、僕達を完全に煙に巻くつもりだったのなら、あの修道士が大の魔術師嫌いだと、僕達に忠告してくれなかったと思うし」
 そこまでモウルが言ったところで、タセイが大きく両眉を跳ね上げた。
「……って、まさか、あんた達……」
「あ、いや、忠告にはしっかり従わせていただいたんだけど……、最後の最後に、ちょっと、ね……」
 若干きまりが悪そうに、モウルが視線をタセイから逸らせる。
 その様子を見て、ウネンはオーリと苦笑を交わし合った。
  
 今朝、オーリによってあっけなく取り押さえられた修道士は、ウネンに掴みかかった時とはまるで別人のように大人しくオーリの尋問を受けた。最初こそ、講談師に対する悪口を恨めしそうに呟いていたが、やがてそれは羨望の言葉へと変容し、遂には目に涙を浮かべて「ねえ、私のどこがいけなかったんでしょう。どうしてヘレーさんは私を選んでくださらなかったんでしょう」と、恋破れた乙女のような台詞とともに、オーリに取りすがってくる有様だった。
 教会の呼び鈴がせわしげに鳴らされたのは、オーリとウネンに慰められてなんとか泣き止んだ修道士が、手巾で鼻をかんでいた時だった。
 修道士の代わりにウネンが扉をあけると、そこには、いつになく険しい表情をしたモウルが立っていた。ウネンとオーリの帰りが遅いことに痺れを切らしたモウルが、お偉方との話し合いを抜け出して、教会へとやってきたのだ。
 ウネンを見るなり眉間を緩めたモウルとは対照的に、モウルを見た修道士の眉が一瞬にして吊り上がった。そして彼は、手巾を握りしめて椅子から立ち上がると、「魔術師風情が何の用だ!」と金切声を上げたのだった……。
「神の前において、全ての者は平等であるべきなのに! お前達魔術師が! 神の御力を独占するなどと! 思い上がりも甚だしい! 許さんぞ! 許すものか!」
  
「神の前に平等、とか叫んでたけど、あの人、その前にぼくに、知識の無い者は知識ある者の足元にひれ伏せ、みたいなこと言ってたよね」
 昼間の騒動を振り返るウネンに、オーリが「ああ」と頷き返す。
 モウルが、大きな溜め息とともにウネンを見た。
「彼らの言う『神の前』ってのは、『同じ神様を信奉する』という意味だからね。異教徒は数に入らないんだよ」
 そうして、モウルは「さて」と居住まいを正してタセイのほうに向き直った。
「若干偏執気味な修道士に絡まれながらも彼が三箇月もこの町に居続けたということは、修道士の鬱陶しさを上回る魅力がここにあったということだ。それが君の存在ではないか、と、彼女が――ヘレーさんの娘が言っている」
 モウルの手にいざなわれるようにして、タセイがウネンを見た。
 タセイは、しばし身動き一つせず目を見開いていた。そして、静かに深呼吸をしたのち、「ああ、うん」と何やら納得したように小さく何度も首を縦に振った。
「ヘレーさんは、最初は昼飯を食べに『葡萄の蔓』に来たんだ」
 深い溜め息に続けて、タセイが穏やかな口調で話し始めた。
「余所から来た人には、俺は必ず話しかけるようにしてる。何が講談の種になるか分からないからね。あんた達の時は、逆に俺が話をさせられてしまったけど。ま、とにかく、ヘレーさんの時も、俺は給仕の隙間に話しかけたんだよ。丁度店も空いていたから、休憩がてら斜向かいの席に腰をおろしてさ」
 美味い料理を前に上機嫌で講談師と言葉を交わす、枯れ草色の髪の旅人の姿が、ウネンの脳裏に浮かび上がってきた。
「海沿いの町からやってきて、二日前から教会に世話になっているってことだった。俺が講談を生業にしているって言うと、どんな話をするんだい、ととおり一遍の反応が返ってきた。よくあるお伽噺だけでなく、それに独自の解釈を加えた『変わり話』もするよ、って答えたら、一転して興味ありそうな表情になったんで、寄席のことを教えてね。晩になってヘレーさんがやってきたから、俺は約束どおり、一昨日にあんた達に話したのと同じ、書庫の魔女についての異聞逸聞を語ってみせた」
 ランプの炎が一際大きく揺らぎ、壁に映る四人の影が、話の先を促すように身体を揺する。
「ヘレーさんは、講談が終わっても身動き一つしなかった。目を見開き、呆然と椅子に座ったままだった。寄席がお開きになって、俺がおそるおそる席に向かったら、ようやくヘレーさんは我に返り、『君の思考は実にエレガントだ』って褒めてくれた。『エレガント』だぞ、『エレガント』。そんな褒め言葉貰ったの初めてだったよ」
 そう言ってタセイは、嬉しそうに笑みを浮かべた。
 オーリはもとよりモウルも、見事なまでの仏頂面でタセイを見つめている。
 ウネンは、一昨日の二人の様子を思い返した。苦々しげに歯を食いしばる二人の表情を思い起こした。
 彼らと知り合ってから二箇月と少し、ウネンはこれまでも、二人が苛立ちや怒りをあらわにするところを何度か目撃している。だが、一昨日ほどに鮮烈な反応は、ウネンも初めて目にするものだった。
 ヘレーもまた、あの異聞逸聞に心を奪われた様子だったとなれば、あの逸話には、彼らの「里」に関わる何かが含まれているのだろう。そして、それは、書庫の魔女に関わることに違いない。
『魔女は、邪竜から書物を守ったのではない。勇者達が書物を読むことのないように、深淵なる書庫に仕舞い込んでしまったのだ……』
 ナヴィをして「あからさまに架空の人物っぽい」と言わしめる、伝説の魔術師ノーツオルス。オーリは当初、そのノーツオルスの依頼でヘレーを探していると言っていた。ノーツオルスの話が、オーリの言うとおり「全部が嘘、というわけではない」のならば、彼らとノーツオルスとの関係は何なのか。書庫の魔女は彼らにとって一体どういう存在なのか。
 答えの出ない問いに思いを巡らせるウネンをよそに、タセイは機嫌よく話し続ける。
「ヘレーさんには、それから随分と贔屓にしてもらったね。お客になってくれるのも嬉しかったけど、旅先で聞いた話を山ほど教えてくれたのが、本当にありがたくってさ。だから俺も、少しおかずを大盛りにしたり、寄席とは別にヘレーさんのために一席ぶったり、あ、あと、あまり外を出歩きたくないって言うヘレーさんに代わって、水車の魔術師んところに本を借りに行ったり……」
 と、タセイはそこで一旦言葉を切って、顎をさすりながらウネン達の顔を順番に見まわした。
「ふぅん。どうやら本当にあんた達はヘレーさんの敵ってわけではないみたいだな」
「え?」
「あんた達、今、ホッとした顔してたもんな。そうだよ、ヘレーさんはここでは、それなりに楽しく暮らしていたよ」
 タセイに内心を見透かされたのが悔しかったのだろう、オーリとモウルが微かな唸り声を漏らした。
「ヘレーさんは何も言っていなかったけど、なんとなく、誰かに追われているっぽい気がしていたんだ。だから、あんた達がやってきて、追っ手かな、って思ったんだよ。それで、一昨日は寄席でちょっと煽ってみたってわけ」
「随分と良いご趣味で」
「エレガント、って言ってほしいねえ」
 モウルの嫌味にもまったく動じたふうもなく、タセイは楽しそうに身体を揺らす。それから、ウネンのほうを向いて、穏やかな笑みを浮かべた。
「ヘレーさんさ、店に小さい子供が来るたびに目を細めて見ていたから、たぶん子供がいるんだろうな、って思ってたんだ。で、とりわけ気にかけていた子が、あんたに雰囲気がよく似ててね」
 その言葉を聞いた途端、ウネンは胸が詰まって息ができなくなった。
 胸の奥から込み上げてくる熱を持った塊を、ゆっくりと、慎重に、少しずつ呑みくだして、大きく息を吸う。そうしてウネンは、胸を押さえたままそっと目を閉じた。
 瞼の裏に、木々の生い茂る森の風景が浮かび上がってきた。ヘレーとともに暮らした、あの懐かしい緑の森が。
 ヘレーが去って三年。ヘレーに会いたいと願いつつも、ウネンは、彼がウネンのことを忘れてしまっていてもおかしくない、と自分に言い聞かせていた。この三年の間にウネンが沢山の人と出会い、さまざまな出来事を経験したように、ヘレーもまた多くの出会いを経験してきているはずなのだから。それも、波乱に満ちているであろう漂泊の日々において。
 忘れられていてもいい、と思っていた。もう一度会えて、きちんとお礼が言えるならば。自己満足に過ぎないのは、元より承知、それ以上何を求めるのか、と。
 でも、もしもまだウネンのことを覚えていてくれているのなら。気にかけてくれているのなら。こんなに嬉しいことはない。
「ヘレーさんがこの町を出ていったのは、やはりあの修道士が鬱陶しかったからなのかな?」
 モウルがタセイに問いかけるのを聞き、ウネンは静かに瞼を開いた。イェゼロの森が消え失せ、ランプの灯りに浮かび上がるオーリ達の姿が見えた。
「それは違うね」
 タセイが、いつになく真剣な表情で身を乗り出した。
「春になって、北方からの行商人が食堂にやってきてね。例によって例のごとく俺が『なんか面白い話はないかい』って話しかけたら、そいつが見たことのない形の鉄の矢尻を見せてくれてさ。その途端、たまたま居合わせていたヘレーさんが凄く怖い顔をして、『それをどこで手に入れた!』って珍しくも声を荒らげたんだ。そいつが『ラシュリーデンの王都で拾った』って言うのを聞くや、ヘレーさんは店を飛び出していって……、そして、その日のうちに荷物をまとめて出ていってしまったんだよ」
「ラシュリーデン王国……」
「王都ヴァイゼンか」
 モウルとオーリの呟きに、タセイがゆるりと頷いた。
  
 謝礼を渡して、礼を言って、三人はタセイの部屋を出た。
「それにしてもまた清々しいほど正面突破で来たね」
 と、戸口まで出てきたタセイが、悪戯っぽく口角を上げる。「てっきり、もっと根性悪い感じの搦め手で来ると思ってた」
 モウルが、ほんの刹那ムッとした表情を見せたのち、いつもの笑顔を満面に浮かべた。
「君のような、ぬらりくらりと掴みどころのない人間には、正面からぶつかったほうが効果的だと思ってね」
「あァ、なるほど。あんたも、正面からぶつかって来られて、難渋したことがあるんだな」
 タセイの切り返しに、モウルが言葉に詰まる。その一瞬、モウルの視線がウネンを掠めた。
 まさか、と思ってウネンがオーリを見上げれば、何とも言えない困り顔が返ってくる。
「えっと、もしかして……」
 自意識過剰かと思い直して言いよどむウネンに、オーリが「そういうことだ」と苦笑した。
「もう夜も遅いんだから、さっさと帰るよっ」
 やにわにきびすを返したモウルの背中に、タセイがにやにや笑いを浴びせかける。
 ウネンはオーリとともに慌ててモウルのあとを追いかけた。
  
  
 ヘレーがラシュリーデンの王都へ向かったという情報を手に入れてからというもの、オーリとモウルは、折に触れひそひそと何かを相談しているようだった。
 モウル様が構ってくださらない、とむくれるダーシャ姫をなだめながら、ウネンもまた憂鬱な気持ちで彼らを見守っていた。
 ヘレーの具体的な行き先が分かった以上、彼らは再びヘレーを追って旅に出るのだろう。
 どうしよう、と、ウネンは胸の内で何度も呟いた。
 何よりもまず、ウネンはヘレーに会いたかった。会って、お礼を言いたかった。そして……、本当に人を殺したのか確認したかった。
 クージェの城の櫓塔でヘレーの罪を告げて以来、オーリもモウルも、そのことを一切口にしなかった。ということは、あれは単なる煽りや脅し文句だったのだろうか。しかし、モウルはともかく、オーリが嘘を言っているようには思えない。
 もしも本当にヘレーが人殺しを行っていたとして、それをわざわざ確認して、自分は何をするつもりなのか。眉間に深い皺を刻むと、ウネンは唇を噛んだ。
  
  
 パヴァルナにやってきて、一週間が過ぎた。
 十日間の滞在予定も残すところあと三日となったその日、ウネンは昼食後にモウルとオーリに城下へと誘われた。
「君、魔術とかそういうのに興味があるんでしょ?」
 そう言われて連れてこられた町外れでは、水車舎の魔術師ノルが、渋い表情で三人を待ち構えていた。
「私も、暇を持て余しているわけじゃあないんだがね」
「まあ、そう言わずに、少しだけお付き合い願います」
「そもそも、こんな暑い昼間に、日陰ひとつないこんな場所に呼び出して、何をする気なんだ」
「呪符を、作るんですよ」
 事も無げな返答とは対照的に、ノルとウネンがほぼ同時に「ええっ?」と素っ頓狂な声を上げた。ただ一人オーリだけが、平然とモウルの横に突っ立っている。
「誰が、誰の術で、呪符を作るんだって?」
「僕が、あなたの術で、呪符を作るんです」
 いや、そんな、まさか、と唸るノルを尻目に、モウルが芝居がかった調子で両腕を広げた。
「水を手足のように自在に操るあなたの魔術の腕には感服いたしました。つきましては、どうかわたくしめにお力を貸していただけないでしょうか」
 ウネンの脳裏に、いつぞやのモウルの声が甦る。「優秀な術者なら、お近づきになって損はないし」と言っていたのは、まさかこのことだったのだろうか、と。
「謝礼として相場の一・五倍お支払いいたします」
「一・五倍?」
 ノルの唇が真一文字に引き結ばれた。青磁色の瞳が、胸中の葛藤を表すかのように二度三度と揺れる。
「……随分と気前の良いことで」
「これでも、まじない師から呪符を買うより安上がりですからね。しかも、術師とまじない師、両方の腕前が保証されているんだから、申し分ありませんよ」
「そうか……、そうだな……」
 晴れてノルの同意を得たモウルは、満足そうに微笑んで、懐から何枚もの木札を取り出した。
  
 モウルの求めに応じて、ノルは幾つもの術をウネン達の前で披露した。水を呼ぶ術、水を探す術、水から不純物をよける術、などなど、幾つも、幾つも。
 モウルはというと、ノルの傍らに座り込んで、目をつむったままペンで何かを一心に木札に書きつけ続けていた。邪魔にならないようにウネンが遠くから目を凝らして見れば、札の上には、子供の落書きのような線が記されていた。
「呪符を作る時も、魔術を使う時も、ちからの扱い方はあまり変わらない気がしますね」
 全ての木札に、大元の術者であるノルの血液――〈たましい〉のしるし、なのだそうだ――をひとしずく落とし、呪符を完成させたモウルは、ノルの問いに涼しげな顔でそう答えた。
「呪符の場合は、自分のじゃなくて他人の術なわけだから、こう、集めたちからを外へ向かって吐き出すのではなく、胸の奥に、溜める、感じ」
 ふうむ、と真剣な表情で顎をさすりながら、ノルがしみじみと嘆息した。
「魔術師でありながらまじない師でもある者など、未だかつて、見たことも聞いたことも無い」
「僕は元々まじない師でしたからね」
 そう言って目を伏せたモウルを、ウネンはノルの後ろからじっと見つめた。かつてモウルが見せた、まじない師に対する冷ややかな眼差しの意味を判じかねて。
まじない師が魔術師に? そんなことがありうるのか」
 驚きに目を剥くノルに対してモウルはそれ以上語ることなく、「それよりも」と話題を変えてくる。
「あなたは、まだ、ここの領主の招きを断るつもりなんですか?」
 不意を打たれたか、ノルが覿面に声を詰まらせた。
「領主付きの魔術師、でしょう? いい話だと思うんですけどねえ」
「彼の目には遮眼革がかかっているからな」
 ぼそり、と零された声には、苦みよりも諦めが色濃く滲んでいた。
「身分のある者、自分に有用だと思われる者以外は、彼の目には映っていない」
 ああ、と思わず声を漏らしてしまったウネンに、ノルが寂しげに微笑む。
「別に、彼が民草を蔑ろにしていると言いたいわけではない。領主としてこの地の経営を至極まっとうに行っていると思うし、その人柄はとても好ましいとも思っている。だが、そこらの『持たざる人々』は、彼にとって、単なる風景の一部でしかないようなのだ。私が彼の懐に入ってしまえば、彼の意識は、更に市井の人々から逸れるだろう」
「それで、町に住むことに固執しているのですか」
 さも意外そうに眉を上げてから、モウルは口元に皮肉を刻んだ。「随分と利他的なことで」と。
 不機嫌さを隠そうともせず、ノルがモウルをねめつけた。
「彼がどうしようもない馬鹿なら、さっさと城に入って、左団扇な生活を送るところだよ。適当に彼を焚きつけて、人々のために動かしておけば、良心もそんなに痛まないだろうしな」
「でも、彼は馬鹿ではなかったし、『その人柄はとても好まし』かった、と?」
 モウルが、涼しい顔で先刻のノルの言葉を引用する。
「……答えの分かっていることをわざわざ問いかけないでいただきたい」
 すまし顔で対抗するノルの頬には、微かな笑みが浮かんでいた。
  
  
  
 とうとう明日にはパヴァルナを発つ、という物寂しげな夕暮れ。皆で、荷造りのできた荷物から順次一階の広間に運び込んでいると、ダーシャがテラスでウネンの名を呼んだ。
 ナヴィやスィセルに一言断ってから、ウネンはテラスへと出た。
 ダーシャが、満面の笑顔でウネンをテラス前の芝生へといざなった。
「ねえねえ、ウネン。ウネンは前にわたしが出した謎、解った?」
 内心慌てて記憶を探って、それからウネンはおずおずと口を開いた。
「ダーシャ様の星はどれか、という謎ですか?」
「敬語」と唇を尖らせたダーシャは、すぐに「そうよ」と嬉しそうに笑った。
 ウネンは溜め息を押し殺しながら、ダーシャの要望に合わせて頭の中を切り替える。
「あの時は見えない星、だったよね。季節が違うのかな、と思ってたんだけど」
「残念でしたー」
 うふふ、と可愛らしく微笑んで、それからダーシャはウネンの耳元に口を寄せた。
「ウネンだけに、こっそり教えてあげる」
 声を潜めたまま、ダーシャが残照に染まる西の空を指差した。
「ほら、あそこ。日が暮れてすぐにだけ見える、小さな小さなお星さまなの」
 ダーシャの指が指し示すほうに目を凝らしてみるが、薄い雲が茜色に影を差すばかりで、星らしきものなど一切見当たらない。
 ウネンは、思わず溜め息をついた。
「ダーシャ様は、本当に目がいいんだね。ぼくには何も見えないや」
「ううん。さっき、きらっと光ってたけれど、雲に隠れたのかもう見えなくなっちゃった……」
 申し訳なさそうに呟くダーシャに、ウネンはにっこりと笑ってみせた。
「教えてくれてありがとう。きっと恥ずかしがり屋の星なんだね」
「そうなの」
 すっかり上機嫌で、ダーシャがかぶりを振った。
「叔父様のところに来たら、時々見えるの。お空が高いせいかしら」
 低地とは比べるべくもない、めくるめく星空がウネンの脳裏に浮かび上がる。あの夜空とも今夜でお別れなのだ。
「モウル様には、わたしから教えるんだから、ウネンが言っちゃ駄目よ」
 そう言って小さなレディは、得意げに片目をつむった。