第五章 旅立ち
往路のようにモウルが馬車に酔うこともなく、ダーシャ王女一行は無事王都へと帰還した。
クリーナク王と王妃は、第一城門の外、岩盤の坂道の下までおりてきて愛しい娘を出迎えた。噂を聞きつけた人々が、街路に、家々の窓に鈴なりになって見守る中、父は娘と固い抱擁を交わし……、ほどなく「お父様、暑くて苦しいわ」との声に、渋々ダーシャを地面に下ろしたのだった。
ウネンは城に帰るなり、ハラバルとの約束どおり、道中とパヴァルナ滞在中に見聞きしたことをしたためた分厚い報告書を提出した。
報告書について、ハラバルは記すべき内容を特に定めていなかった。勿論、王弟の依頼の顛末は極力漏らさずに、と念を押しはしたが、それ以外のことに関しては、ただ一言「あなたが見聞きしたことを、全て、わたくしに教えてください」と告げただけだった。
ハラバルは今までに何度もパヴァルナを訪れている。一帯の地勢や地理について、今更ウネンに情報収集を頼む必要などあまりないはずだ。ということは、この「課題」の核心は、「ウネンが何をどのように報告書にしたためるか」という点にあるのだろう。地図をめぐる騒動を発端に、なし崩しに雇い入れることとなった新しい助手の人となりを、あらためて確認しよう、という含意があるに違いない。
そう認識したウネンは、たっぷり二日を悩んだのち、〈不在の神の教会〉での出来事についてもハラバルに報告することにした。
実は、ウネンを王都に召喚する際に王達が事前に把握していたウネンの身元は、「イェゼロの医者ミロシュの娘」ということだけであった。そして、ハラバルの助手となるにあたって、当時はまだオーリ達に本当のことを告白していなかったこともあり、ウネンはそれ以上の情報をそこにつけ加えずにいたのだ。
教会での騒動を報告書に記すとなれば、「ヘレーとは何者か」を説明する必要がある。ウネンは腹をくくると、自分が五歳の時にヘレーに拾われたことを、そのヘレーが算術や諸々の知識を教えてくれたことを、三年前にヘレーが行方不明になったことをも、ともに書き連ねたのだった。
王都に戻って二日後の朝、ハラバルはウネンの報告書を手に、机の前に彼女を呼んだ。
詳しい経歴を黙っていたことを叱責されるのは勿論、場合によっては解雇されることすら覚悟して、ウネンはハラバルの前に立った。
直立不動の体勢で告達を待つウネンを、ハラバルはしばし無言で見つめた。それから、手元の報告書にちらと目を落とした。
「細部まで大変充実した記録を、ご苦労でした。特に、パヴァルナ周辺の地質に関する考察と灌漑規定に関する記述は、非常に有用なものだと思います」
まさかの褒め言葉に驚いたウネンは、一瞬言葉を失った。二度ほど目をしばたたかせたのち、慌てて「ありがとうございます!」と言葉を返す。
「それと……」
僅かに言いよどむハラバルの様子を見て、ウネンは再度身構えた。報告書には、もう一点、火種ともいうべきものが含まれていたからだ。
ヘレーのことを書くに際して、ウネンは、自身が直接あずかり知らない事柄――ヘレーが追われているという件を始めとする、オーリ達の「里」とやらにまつわる事情――については一切記さなかった。となると、以前にモウルが王に言った「ウネンを守る任務」の意味がよくわからなくなってくることだろう。
とは言え、この件を問われたところで、ウネンにはモウルに回答を丸投げすることしかできない。あとでモウルに物凄い嫌味を言われるだろうな、と、ウネンは唇を引き結んだ。
「……それと、この、破損した杖というのは、前に図面に写させてもらった、あの、方位盤の杖のことですか?」
またしても、想像もしていなかった問いがハラバルから発せられ、ウネンは弾かれたように背筋 を伸ばした。
「えっ、あっ、はい、そうです」
「壊れてしまったのは、木部だけですか? 方位盤は……」
「方位盤は外してあったので、無事です」
「それは良かった。しかし、困りましたな……。何か代わりの杖を用意させましょうか」
思ってもいない方向に話が進んでいくのを止めようと、ウネンは慌てて両手を振った。
「いえ、その、何か、要らない箒の柄 みたいなものとか、いっそ折れた木の枝でも充分ですからっ」
「そうですか。では、使用人頭にでも、そういったものが無いか探すように言っておきま……」
「きょ、許可をいただければ、自分で探しますのでっ。他の方のお手を煩わせるほどのことではっ」
予想外の展開に対する動揺も相まって、ウネンはひたすらおろおろと恐縮するばかり。
「分かりました。では、後ほど使用人頭に、その旨伝えておきましょう」
書類整理の仕事に戻ったウネンは、溜め息を二つ吐き出した。深い安堵の溜め息と、そしてもう一つ、ほのかな落胆の溜め息を。
翌日の昼下がり、たまたま夕方まで時間が空いたため、ウネンは杖の材料を探しに、第二城門にほど近い、厩の裏にあるごみ捨て場へと向かった。
城の内郭で出たごみのうち、堆肥にできるものは主館や居館といった主だった建物の裏手にある菜園へ、燃料に使えるものは厨房の外の薪倉庫に持っていかれるが、燃やせないもの、燃やすと臭いの出るものなどは一旦このごみ捨て場に集積され、決まった日に屑屋がやってきて回収していくとのことだった。
イェゼロの町と同様、王都の屑屋も、回収したごみの中からまだ使えそうなものを商品として再び世に放つのだろうが、王城の人々はかなり優秀な「しまり屋」のようで、屑屋が派手な舌打ちをするさまが目に浮かぶようだ。
「うーん、やっぱりこっちには使えそうなものは無いなあ」
落胆の気持ちを誤魔化さんと声に出して呟いてから、ウネンはごみ捨て場をあとにした。向かうは、居館脇にある薪倉庫だ。
薪倉庫の前では、一人の壮年の使用人が椅子を解体しているところだった。
「おや、どうしたね、おチビ先生」
なんとも微妙な呼び名に対してどう反応すればよいのか分からずに、ウネンはとりあえず「こんにちは」と挨拶を返した。
「ええと、箒の柄 みたいな棒があればいただけないかと思って」
「あー、しまった、一本ばかりあったんだがね、薪にするためにさっき折っちまったところだよ」
使用人が指さした場所には、幾つもの板切れと一緒に、無残に二つ折りになった箒の柄 が転がっていた。
ウネンは、二本になった柄 を手に取ると、元あったように繋げてみた。
「ささくれてしまったところを切って繋げば、丁度いい長さかも」
倉庫の壁に立てかけてあった鋸を借りて、ウネンは柄 の折れ目を切り落とした。ばらした椅子に使われていた大釘も二つ譲り受け、丁寧に礼を言ってその場を辞する。
次にウネンが向かったのは、主館の前庭を横切った先にある鍛冶場だった。
有事の際には、召喚された何人もの職人がひっきりなしに武具を修繕したり鍛えたりすることになるのだろうが、今は、老いた鍛冶屋と若い弟子の二人が、広い鍛冶場でゆったりと槌をふるっている。耳の奥を直接殴りつけられるような錬鉄を打つ音に負けじと、ウネンは「すみません」と声を張り上げた。
「おお、あんたはハラバル先生のところのチビちゃんだね。どうなさったね」
弟子の作業を見守っていた老鍛冶が、にこにこと笑みを浮かべて戸口まで出てきた。
「工具を幾つか使わせていただけませんか」
「いいともさ。そこの作業台が空いているから、自由に使っておくれ」
ウネンは、折れて二本になった柄 と大釘を台の上に置いてから、ズボンのポケットからこぶし大の方位盤を取り出した。柄 を接ぐ前に、方位盤の差し込み口に合わせて棒の先を削る必要があるからだ。
ウネンの求めに応じて小刀 を貸してくれた老鍛冶が、方位盤を見て感心したような声を出した。
「ほほう、方位盤をどんな向きで持とうと、方位磁石は水平を保つようになっとるのか」
なるほどなるほど、と繰り返したのち、老鍛冶は「もしや」とウネンを見た。
「これは、あんたのお手製かね?」
「あ、はい。中身の方位磁針は違いますけど」
慎重に小刀 を動かしながら、ウネンは声だけを老鍛冶に返す。
「『曲げ』が多少甘いところはあるが、どうしてどうして、なかなか上手く作っておる」
「ありがとうございます」
ウネンは思わず嬉しさに頬を緩ませた。途中で何度も投げ出しそうになりつつも必死で板金を切り出しただけに、仕事ぶりを褒められた喜びはひとしおだ。
「しかし、この、方位磁石は一風変わった模様だの。この辺りの物ではないのかね?」
「あ、はい、たぶん。人から貰ったものなので」
旅の間、どんなに振り回してもひとつところを指し示す針が面白くて、ウネンはことあるごとにヘレーにせがんでこの方位磁針を見せてもらったものだった。イェゼロの森に居を定めて以来、長らくどこかへ仕舞い込まれていたこの方位磁針が、ヘレーが町を出ていったあと、ウネンの机の上にぽつんと置かれていたことを思い出し、鼻の奥がつんとなる。
「本体の作りはしっかりしているし、針も軸も加工が綺麗だし、ガラスの蓋までついてるとなると、こりゃあ、かなりの上物 なんじゃないかね」
大事にしなさいな、としみじみと呟く老鍛冶に、ウネンは力一杯「はい」と頷いた。
やすりとやっとこで大釘をかすがい状に加工し、それを使って二本の柄 を接ぐ。そうやって一本の棒にすることができたら、木の皮と紐をつかって接合部を補強する。……というのがウネンの計画だったのだが、古びた箒の柄 は、かすがいを打ち込むやあっけなく裂けて割れてしまった。
方位盤を手にとぼとぼと前庭を歩きながら、ウネンは次の手を考えていた。不用品が出るのを待っていては、いつになるかわからない。ここらの木を勝手に切るわけにもいかないとなれば、今度の休みにでも町におりて材料を買ってくることにしようか、と。
主館へ帰ってきたウネンは、大広間からいつになく騒がしい声々が響いてくるのを聞き、怪訝に思って足を止めた。
あけ放された扉から中を覗いてみれば、大広間の向こう隅にある暖炉の前に、人だかりができている。使用人や警護の兵達、モウルに、なんとジェンガ翁。その隣にハラバルの姿を認め、ウネンは迷わずそちらに足を向けた。
「お願い!」
ダーシャ王女の声が、人垣の向こうから聞こえてきた。
「このままだと、鳥さんが死んでしまうわ。お願いだから、誰か助けてあげて!」
切々たる姫の声にかぶって、暖炉の奥、少し上のほうから羽音がした。ばさり、ばさ、ばさり。どこかぎこちない調子で、鳥の羽が壁を叩いている。
音の重さを聞くに鳩か鴉か、とウネンが考えた瞬間、くあ、とくぐもった鳴き声が聞こえた。
「鴉か……」
使用人達がぼそぼそと囁き合う。いわゆる「魔術師の黒」に似た色味の羽根のせいか、昔から鴉は神の使いと謂われ畏怖されているのだ。
「上から落ちたのかねえ」
「でも、煙突には網を張ってあるはずなのに」
「破れたり外れたりしたんかね」
彼らの表情を見る限り、どうやら、助けなければという使命感よりも、触らぬ神に祟りなし、との思いのほうが強いようだ。
「煙突の途中に引っかかっているのなら、なんとか私の風で運べないでもないでしょうが、煙棚に落ちてしまっているとなれば、ちょっと難しいですね……」
モウルが申し訳なさそうに息を吐く。
それに対抗せんとばかりに、ジェンガが鼻を鳴らした。
「はんっ、とんだ意気地なしじゃ。鳥の一羽相手に打つ手なしとは、片腹痛いわ。姫様、こんな奴など頼りになさらず、儂に任せて……」
「焼き鳥を作ってどうなさるんですか」
「酷いわ、ジェンガおじい様!」
互いに口撃しあう二人の魔術師の大人げない様子に、ウネンの口から溜め息が漏れる。時を同じくして、ハラバルが「フェルデ」と使用人達に声をかけた。
がっしりとした体格の、一番若い使用人が「はい」と返事をした。
「煙突掃除はあなたの担当でしたな。とりあえず何か手立てはないか、考えてみましょう。私の部屋にこの煙突の図面がありますから、一緒に来てもらいましょうか」
フェルデと呼ばれた男は、気が進まなそうな表情を浮かべたものの、「分かりました」と頷いた。
「ウネンも、それとモウル様もご一緒に来ていただけますか」
「儂は……?」
「ジェンガ様には、こちらで、姫とともに神の使いの無事を祈っていただきたく」
「……………………承知、した」
ハラバルに名を呼ばれ一度は面倒臭そうに眉をひそめたモウルだったが、仲間に入れてもらえず不貞腐れるジェンガを見るや、一転して得意げな笑みを浮かべてハラバルのあとに続く。
やれやれ、と大きく息を吐いてから、ウネンも大広間をあとにした。