あわいを往く者

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九十九の黎明 第六章 もう一つの故郷

  
  
「本当に、大きくなったわねえ。あんなちっちゃい赤ん坊だったのに」
 先ほど広場で祝詞を奉納していた祈祷師が、簡素な木のテーブルの上に香草茶の入ったカップを四つ並べる。オーリ、モウル、と湯気の立つカップを順に手渡して、最後にウネンの前に、「見違えたわ」と満面の笑みとともにカップを置いた。
 広場にて、「もしかして、ウネンじゃない?」と声をかけてきた祈祷師は、ウネンがおそるおそる頷くや、感極まったような声を漏らして彼女を正面から抱きしめた。そうして祈祷師は、ウネン達の当惑に頓着する様子もなく、屈託のない笑顔で三人を神庫ほくらへと招き入れたのだ。
 礼拝堂の横手、小ぢんまりとした庫務所のテーブルに、香草茶に次いでパンの入った籠が置かれる。なんでも、祭りで配られた縁起物らしい。
「あなたは覚えていないでしょうが、あなたが生まれた時に、わたしも立ち会ったのよ。ほら、豊穣の神は安産の神でもあるでしょう。無事生まれますように、って一晩中祈りを捧げてね……」
 ランプの灯りのもとで見る祈祷師は、その装いを除けば、ごく普通の初老の婦人だった。胡桃色の髪には多分に白髪が交じり、目尻や口元にも皺が目立っている。先刻広場の舞台に立っていた時の厳粛な雰囲気はどこへやら、まさしく、久しぶりに帰郷した孫を歓待する祖母、と言った風情だ。
 遠慮なく召し上がれ、と、自身もテーブルに着いた祈祷師に、モウルが「あのー」と声をかけた。
 そこでやっと、祈祷師の意識が男二人に向く。
「あなた達は、魔術師様に剣士様ね。ウネンとは一体どういう関係なのかしら」
 ええと、と、モウルが一瞬言いよどむのを見て、ウネンはすかさず横から「仕事仲間です」と口を挟んだ。
「あら、そうなの。お仕事の」
 祈祷師は、モウルとオーリを交互に見つめて、それからにっこりと「頼り甲斐のありそうな同僚さんね」と微笑んだ。
「そして、ウネンのことを、とても大切に思ってくれている」
「そりゃあ、任務をつつがなく遂行するためには、最低限お互いを思いやる必要がありますからね」
 モウルが、涼しげな表情で肩をすくめたのち、あらためて祈祷師に向かって問いかけた。
「ところで、先ほどあなたは、現在のウネンについて語る際に『赤ん坊』を引き合いに出されましたね」
「ええ」
「ウネンは五歳までこの町にいたと聞いています。何故『赤ん坊』まで遡ったのか、少し気になったのですが」
 飄々とした声音とは相反して、鋭い眼差しが祈祷師を射る。
 祈祷師は溜め息を一つして、自分の手元に目を落とした。
「ええそうね。ウネンが生まれてしばらくは、この子の母親ともそれなりに行き来があったのですけどね、だんだん疎遠になってしまってね……」
 静まり返った室内に、窓に下ろされた鎧戸の向こうから広場の喧騒が響いてくる。
「あなたのお母さんは、とても若かったからねえ。子育てのこととか、生活のこととか、自分の子を相手にするような感じで、ついつい余計な口出しをしてしまって、それで、疎ましく思わせてしまったみたいでね……。だんだんわたしのことを避けるようになって、町の方にも出てこなくなってしまって、それで……」
 かつての記憶をなぞっているのか、祈祷師は訥々と言葉を吐き出してゆく。
 彼女が一息ついたところで、モウルが更なる問いを発した。
「赤ん坊の時の顔しか知らなかったのなら、なおさら、何故、彼女がウネンだと分かったんですか?」
 それは、ウネンも不思議に思っていたことだった。いくらウネンがチビだとしても、五歳の頃とは比べるべくもない。表情や態度だって全然違ってしまっているはずなのに、どうしてウネンだと分かったのだろう、と。まさか、比較元が五歳どころか赤ん坊の頃まで遡るとは思ってもいなかったけれども。
 問われた祈祷師は、悪戯が成功した子供のように、少し得意そうに微笑んだ。
「それはね、声が聞こえたからなの。あなたの姿を見た瞬間に、祭囃子や皆の話し声を突き抜けるようにして、声が、ね」
「声」
 ウネンの、そしてモウルの呟きが一つに重なった。
 張り詰める空気に気づかないのか、祈祷師は上機嫌で話し続ける。
「あなたが生まれた時もそうだった。あなたのお母さんも、産婆さんも、そんな声なんて聞こえなかった、って言っていたけれど。でも、わたしは確かに聞いたのよ」
 そこで祈祷師は、深く息を吸い込んで、少し勿体ぶった調子で言葉を継いだ。
「『ウネン、エンデ、バイナ』って言う声を。確かにね」
 その瞬間、金属かねを打ち鳴らしたような鋭い耳鳴りがウネンを襲った。
 相前後して、またも、なにものかの声がウネンの鼓膜を震わせる。
 いや、果たしてそれは、声、なのだろうか。パヴァルナの畑地で感じた時のように、直接ウネンの思考を震わすような、なにものかの……意思。
 よく来た。
 来るな。
 ようこそお帰り。
 くとね。
 歓迎するような響きと、拒絶の波動と、相反する声々がウネンの頭蓋とうがいの内部で幾度もこだまする。
「……なんだ、これは……」
 モウルが、絞り出すように声を漏らした。服の胸元を右手で握り締めながら。
 その向かいで、祈祷師もまた、手を自分の胸にあててじっと目を伏せている。
 声が那辺へと引いてゆき、場が平常に戻るや否や、ウネンは気ぜわしくモウルに尋ねた。
「モウルも聞こえた?」
「何が?」
 ぐったりとテーブルに片肘をついて、モウルが訊き返す。
「おかえり、とか、でていけ、とか」
 ウネンの問いに、モウルはゆるりと首を横に振った。
「何も聞こえやしなかったさ。ただ、胸の奥が……ざわざわしただけだ」
 モウルの言葉を聞き、私と同じね、と、祈祷師が目を細めた。
「あなたが生まれた時に聞こえた、この言葉をね、今みたいに口にするたびに、胸の奥がざわめくのよ。まるで森の木々が一斉に風に揺れるみたいに」
 祈祷師は、今一度両手を胸にあてた。そうして、そっと目をつむった。
「本当、不思議。こんなこと、あなたが生まれる前にもあとにも一度だって無かったもの。だから、よく覚えているのよ」
 ゆっくりと瞼を開き、ウネンを正面から見つめ、そうして祈祷師は一音ずつを噛み締めるようにして話し続けた。
「そして、さっき祭りの広場であなたを見つけた時も、同じ声が聞こえたのよ。人々で賑わう広場を貫いて、真っ直ぐに、『ウネン、エンデ、バイナ』って」
 モウルが、また胸元を押さえた。眉間に皺を寄せ、左手に座るオーリに視線をやる。
「オーリ」
「俺には何も聞こえないし、ざわめきとやらも感じない」
「そうか」
 深く大きく溜め息を吐き出してから、モウルはウネンの顔を見た。
「これは、さっき言っていた〈囁き〉とは、また別なものなのか?」
「うん。〈囁き〉は、それこそ耳とか身体の中とかがざわざわするだけで、意味も何も分からないけれど、今のは、明確な意思が感じられた」
「お帰り、に、出ていけ、か」
 右手で口元を押さえながら、モウルが唸り声を漏らす。
 ウネンは、ここぞとモウルのほうへ身を乗り出した。
「実は、子供の頃、ヘレーさんと出会った時も、同じような謎の声を聞いたんだ。オーリやモウルと最初に会った時も。あと、パヴァルナでリボルが神様を求めた時も」
「お帰り、って?」
「ううん。祈祷師さんが聞いた、って言葉と同じような……」
「ウネンエンデバイナ、か」
 モウルが流れるような口調で、くだんの文言を口にする。僅かに顔をしかめるところを見れば、またしても胸の奥にざわめきを感じているようだ。
「うん。でも、それとは別に、さっきの『おかえり』みたいな、何か、聞き取りきれない言葉の断片とかも」
 ふうむ、とモウルが顎をさする。
 その様子を黙って見つめていた祈祷師が、おもむろに、「神様を求め……」とウネンの言葉を繰り返した。
「ウネンは少しばかり難産だったのよ。だから、わたしも、いつも以上に必死になって、神にご加護を求めたわ。そして、願いが通じたのか、あなたは無事生まれてきた……」
 祈祷師は、胸の前で両手を合わせると、そうっと両の瞼を閉じた。
「この言葉は、やはり、産婆さんが言っていたように、何か神様のお告げなのかしら……」
「もしや、彼女の、ウネンという名は……」
 モウルの問いかけに対し、祈祷師は「ええ」と頷いた。
「わたしの話を聞いた産婆さんがね、『この子はきっと神様のいとし子に違いない』と言って、あなたのお母さんに『ウネン』という名前を薦めたのよ。『きっと、この子はあんたを幸せにしてくれるよ』って」
 刹那、ウネンの喉を胃液が一気にせり上がってきた。口腔内にまでこみ上げてきたそれを、ウネンは必死になって呑みくだす。
 耳元にまざまざと甦るは、母の声。
『わたしがこんなつらい目にあっているのは、お前のせいなんだよ、ウネン』
 ウネンは奥歯を食いしばった。ゆっくりと息を整えて、古い記憶を奈落へと蹴落とす。
 と、祈祷師が、どこか寂しそうな眼差しでウネンの目を覗き込んできた。
「……お母さんのことは、もう聞いたの?」
 わけが分からないままに、ウネンは夢中で首を横に振った。これ以上過去に付き合わされるのは御免だ、との意思も込めて。
 だが、祈祷師は、そんなウネンの胸中に気づいた様子もなく、静かに目を伏せ息を継ぐ。
「あなたのお母さんね、亡くなったのよ」
 視界の外で、オーリとモウルが息を呑んだのが、ウネンには分かった。
「……亡くなった」
 ウネンは、祈祷師の言葉を淡々と復唱した。
 自分でも驚くほど、なんの感慨も湧いてこなかった。
「そうなの。もう六年も前になるかしら。色々と無理が祟ったみたいで、身体を壊して……。まだ二十六だというのに……」
「無理を、ですか」
 ウネンが自分の声の平坦さを自覚するのとほぼ同時に、祈祷師が大きく息を呑んだ。
「あなた、もしかして、エレンの――あなたのお母さんの――のこと……」
 何を今更、とばかりに、ウネンは静かに頷いた。
 ああ、ああ、と、祈祷師が何度も首を横に振る。そうして深々と息を吐き出して、テーブルの上で組んだ指に視線を落とした。
「エレンはね、可哀想な子だったのよ。十にもならないうちに、実の親に妓楼に売られて、以外のことは何にも知らないまま大人になってしまって……」
 それは、ウネンが初めて耳にする話だった。そもそも母親の年齢すら、ウネンは知らなかったぐらいなのだから。
「でも、お腹の子を守りたい一心でここまで逃げてきた、って誇らしげに言っていたわ。あなたのことだって、物凄く可愛がっていてね。ただ……、あの子は、あの子の心は、まだまだ子供のままだった。独りで生きていくための知識も、胆力も、何も持っていなかった。なんとかしてあげたかったんだけど、気がついたときには、あの子は、もといた世界に戻ってしまっていて……」
 祈祷師は、そこで息を詰まらせた。そっと目元を指の背で拭った。
「あなたを里子に出した、って人づてに聞いたときは、ほっとしたわ。ああ、あの子は、自分の子におのれと同じごうを背負わすことはしなかったのね、って」
 ごう、と、ウネンは小さく口の中で呟いた。その言葉が意味するところを生唾とともに呑み込んで、もう一度、「おのれと同じごう」と繰り返す。
『いいかい、わたしが、いいって言うまで、絶対に帰ってくるんじゃないよ』
 ああそうだろう、そりゃあ彼女もの現場を子供に見られたくはなかっただろう。長じて世の中のことが解るようになったウネンは、記憶に残る情景をまるで他人事のように振り返ったものだった。
『もしも男どもがあんたに何か言ってきても、絶対に、絶対に無視するんだよ』
 仕事の妨げをするな、と、お前は邪魔なんだから、と、そういうことだったんだろうとウネンは思っていた。
 だが、祈祷師の「ごう」という一言が、この期に及んでその仮説を揺るがせる。
 そう言えば、ウネンの母は、ウネンが女の子らしく振る舞うことをあまり喜ばなかった。男の子が欲しかったという彼女の思いから来ているのだろう、と考えていたが……、まさか、との思いがウネンの中でのそりと首をもたげる。
 まさか。いや、もしかして。記憶の海に沈む母の姿に目を凝らそうとして、ウネンは、かつて旅路にヘレーが言ったことを思い出した。
『可愛らしい服も買ってあげたいんだけどね。正直なところ、旅をするのに女の子らしい格好は危険だから』
 それを皮切りに、懐かしい情景がどんどん溢れ出していく。
『せっかくゾラさんが、子供の頃の服をくださるって言ってくれたのに……』
 イェゼロの森に落ち着いて、何箇月か経った頃。ヘレーが恨めしそうにウネンを見やる。
『だって、あんな服だと木に登れないよ! 動きにくくて非効率的だし!』
 溜め息をつくヘレーに、ミロシュがニヤニヤと笑いかける。
『子供ってもんは、育てたように育つからな』
『でも、せっかく女の子なんだから、たまには可愛い服を着てみても……』
『諦めろ』
 次から次へと甦る、きらきらと輝くヘレーとの日々。記憶の底にこびりつく薄暗い小屋の風景から目を逸らそうとでもいうかのごとく、あとから、あとから――
「あなたがこんなに立派に育って、きっとエレンも喜んでいるわ」
 祈祷師の声が顔面を打ち、ウネンは我に返った。