あわいを往く者

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九十九の黎明 第六章 もう一つの故郷

  
  
 ウネンは――ウネン達は、お礼や挨拶の言葉を述べるのも早々に豊穣の神の神庫ほくらを辞した。
 町の西の外れ、大樹海に連なる木立の傍ら。板葺き屋根の古ぼけた宿屋に、三人はなんとか一部屋を確保することができた。
 荷物をおろしてひと息ついたところで、オーリとモウルが夕飯を食べに出ようと腰をあげたが、ウネンは「食欲がない」と首を横に振った。いつもなら「食え」と口うるさいオーリも、今回ばかりは何も言わず、あっさりとモウルのあとをついて部屋を出ていった。
 一人になったウネンは、寝藁などない板張りの寝台の上に、ごろんと横になった。
『エレンはね、可哀想な子だったのよ』
 確かに、ウネンの母には彼女なりの事情があったのかもしれない、が。耳の奥で未だこだまを繰り返す祈祷師の言を打ち消さんとばかりに、ウネンは「でも」と声に出して反論を試みる。
「でも、そんな、今更、仕方がないね、なんて割り切れるわけ、ないじゃないか」
 ロゲン行きを決めはしたが、ウネンには母親に会うつもりなんて毛頭無かった。そもそも過去を振り返る気すら無かったのに、と、思いもかけない祈祷師との邂逅に、今になって、ふつふつと腹立たしさが湧いてくる。
「ぼくにだって、言いたいことは山ほどある――あった――んだぞ」
 謎の声についての情報を手に入れられたのは幸いだったが、それにしても割りが合わなさすぎる。ランプの明かりにぼんやりと照らされる天井を見上げながら、ウネンはいら立たしげに大きく息を吐き出した。
  
 どれぐらいそうしていただろう、ふと、廊下に気配を感じて、ウネンは寝台の上に起き上がった。
 間を置かず部屋の扉があいて、香辛料と香ばしい肉の匂いが一気に中に吹き込んでくる。
「注文し過ぎたから、持って帰ってきた」
 オーリがそう言って、串焼き肉が盛られた皿を寝台の端に置いた。
 肉汁したたる鶏肉が、芋や人参と一緒に仲良く串に刺さっている。ほどよく焦げ目のついた皮を潤す琥珀色の雫は、魚醤だろうか。
 ウネンの頭の中で渦巻いていたあれこれが、一瞬にして全て串焼きに取って代わられた。
「処分するのを手伝ってくれないか。余ったなら俺とモウルが食う」
「ええっ、オーリがなんとかするんでしょ。僕、お腹一杯だよ」
 モウルが抗議の声を上げたその時、ウネンの腹の虫が、ぐう、と鳴いた。
「……なんとかしなくても大丈夫みたいだね」
「無理はするな。食える分だけ食え」
 ついさっきまで、パンのひとかけすら喉を通らないと思っていたのに。若干のきまり悪さを、湧き上がる食欲が凌駕する。ウネンは居住まいを正して「ありがとう」と二人を交互に見上げた。
  
  
 明けて、収穫祭二日目。
 美味しい食事は、腹ばかりか心も満たす。依然として胸の奥には重苦しい塊が詰まっているようではあったが、ウネンは、幾分すっきりとした心地で朝を迎えることができた。
 窓から漂ってくる清々しい森の香りを胸一杯に吸い込んでから、大きく伸びをする。両腕をぐるりと回して、硬くて狭い寝床のせいですっかり凝り固まってしまっていた肩をほぐす。
 既に部屋の外では、一足先に支度を終えたオーリ達が待っている。ウネンは手早く身繕いを済ませると、窓を施錠して部屋を出た。
 朝食を食べるのも早々に聞き込みを開始した三人は、毎年祭りに合わせて各町を回っている旅芸人の一座が、今年も公会堂の裏手で野営を張っているということを知った。
 早速三人は話を聞こうとその場所へ向かった。
 幕を張り巡らせた野営地の入り口には、オーリが優男に思えるほどの強面こわもての大男が立っていた。モウルが話しかけるよりも早く、「関係者以外立ち入り禁止だ」と胸を張る。
「ええと、実は、去年の出来事について少しお聞きしたいことがあるのですが、誰かお話ができる方は……」
 モウルお得意のよそゆきの笑顔も、この大男には通じなかった。
「公演の仕込みや仕掛けを見せるわけにはいかねえな」
「別に、中に入りたいと言っているわけではありません。お話できる方に、ここまで出てきていただくわけには……」
「公演の準備の邪魔をするんじゃねえつってるだろ! 帰った帰った」
 今にも殴りかかってきそうな大男の剣幕に、さしものモウルも一旦引かざるを得ない。
 他の店や屋台に聞き込みながら機会を窺うこと数時間、くだんの一座の午前の部の公演が始まり、終わり、休憩に入ろうとした座長のカツラが風に飛ばされ、それをモウルが拾ったことをきっかけに、三人はようやく彼らから一年前の話を聞くことができた。
「親切な人だったよ」と座長は言った。「熱が下がらないあの子のために、わざわざ寄り道して一緒に来てくださったんだ」
 ヘレーは、ここロゲンから三つ先の、元の主街道と合流する町まで一座に同行したとのことだった。「確か、そこから更に北へ行くと言っていたよ」とも、座長は教えてくれた。
「というわけで、望む情報が手に入ったわけだけど、野宿覚悟で今からこの町を出るか、もう一泊するか、さてどうしよう」
 すっかりお昼をまわり、更なる賑わいを見せる町の広場にて、モウルがウネンとオーリに意見を聞く。
 オーリが、いつもどおりの仏頂面をウネンに向けた。
「お前の希望に合わせよう」
「ま、それが無難って言ったら無難だよね」
 小さく肩をすくめてから、モウルが目顔でウネンに返事を促す。
 ウネンはしばし足元に視線を落としたのち、心を決めてゆっくりと顔を上げた。
  
  
 走り書きの地図と遥か昔の記憶とを頼りに、ウネンはオーリとモウルを先導して町外れの道を歩いていた。目的地は、かつてウネンのことを心配して色々と世話を焼いてくれていたおばさんの家だ。
 当初ウネンは、ロゲンで必要な情報を得たあとは、自分の過去には触らずそのまま次の町へ向かう心積もりだった。だが、既に祈祷師と言葉を交わしてしまった以上、あれだけ世話になったおばさんのことを無視するわけにはいかないだろう。
 それに何より、ウネンはおばさんにあの時のお礼が言いたかった。そして、元気に生きているよ、と伝えたかった。
 町の広場で、そうオーリ達に告げたウネンは、深呼吸を一つしてから、「これはあくまでもぼく個人の問題だから、オーリ達は宿で待っていてくれてもいいよ」と付け足した。
「待っていても『いいよ』? 待っていて『ほしい』ではなく?」
 言葉の端に現れた躊躇いを、モウルが容赦なく指摘する。
「昔のあれこれを僕らに聞かれたくない、っていうのなら、オーリと二人で適当に時間を潰すけど」
「あ、いや、今更、聞かれたくないことなんて全然無くって、ただ、そのぅ、辛気臭い話に無理矢理付き合わせたら悪いかなあ、って……」
 ウネンの言葉を聞いて、オーリとモウルが苦笑を浮かべて互いに顔を見合わせた。
「昨日の祈祷師とのお茶会は……、まあ、若干居心地が悪くないこともなかったけど、今から会いに行く人は、ヘレーさんが君を引き取るきっかけを作った人なんでしょ? そのあたりの話には、僕もオーリも興味があるんでね」
 そうと決まれば、と、三人は手頃な屋台で腹ごしらえをした。それから祈祷師を捕まえて簡単な地図を書いてもらい……、現在に至るというわけだ。
「二人とも、一緒に来てくれてありがとう。正直、独りで行くのはちょっと心細かった」
 見覚えのある景色にさしかかったところで、ウネンは思わず足を止めた。
 北隣の町へと続くこの田舎道のすぐ右手に、かつてウネンが母と住んでいた小屋が在ったはずだった。あの当時で既に、いつ倒壊してもおかしくないほどのおんぼろな小屋だったが、今は、草葉の陰に朽ち果てた木切れがちらちらと見られるのみだ。
「いえいえどういたしまして」
 ウネン同様に小屋の跡を見つめていたモウルが、淡々といつもの台詞を口にのぼした。それから「あの坂道だね」と前方を指差す。
「うん」とウネンは頷いて、唇を引き結んだ。
  
 もしかしたら祭りに出かけて留守かもしれない、との懸念は、坂を登りきる前に打ち消された。砂利を踏みしめやってくる「よそ者」達に「何の用だい」と刺々しい声が投げかけられたのだ。
 よく日焼けした年配の婦人が、眉間に険を刻んで、両手の土を払いながら畑から道へと上がってくる。忘れようがない、小さなウネンの命を繋いでくれた、あのおばさんだ。
 ウネンは、唾の塊を呑み込んでから、大きく息を吸い込んだ。
「あ、あのぅ。十年前に、そこの坂の下に住んでいた、ウネン、です!」
 おばさんが、怪訝そうな顔で立ち止まった。
「あの時は、パンをありがとうございました。一言お礼が言いたくて、それで……」
 そこまで言ったところで、ウネンは知らず声を詰まらせた。
 まだ死んではいない、というだけの生を送っていたウネンに差しのべられた、救いの手。
『ちょっと水汲みを手伝ってくれないかね』
 申し訳程度の水しか入っていない桶を、わざわざ用意して。
『これはお礼だよ』
 パンなんて、もうずっと口にしたことがなかった。
『いいから、食べなって』
 手に持っただけで、小麦の香ばしいかおりが鼻をくすぐる。
『あんたは水汲みを手伝ってくれた。これはその代金なんだから』
 ああ、ああ、なんて美味しいんだろう……!
 胸の奥底から怒濤のごとく溢れ出してきた感情が、喉に詰まって言葉にならない。気ばかりが焦って、ウネンは、ただ、喘ぐように呼吸を繰り返す。
 おばさんは、口を真一文字に引き結ぶと、両手のこぶしを握り締めて、つかつかとウネンに向かって歩いてきた。そして、勢いよくウネンを抱きしめた。
「こんなに大きくなって……! 良かったよ、本当に良かったよ!」
 おばさんの声が、震えている。
 ウネンも、そっとおばさんの背に両手を回した。
  
 おばさんに家の中に招き入れられたウネン達は、炒り豆の茶と木の実入りのパンを振る舞われた。
 息子さんの子供だという三、四歳の小さな女の子が、ウネン達の様子を窺いに部屋の戸口にやって来ては、「あっちで遊んどいで」と祖母であるおばさんに追い返されるのが、微笑ましい。
 ウネンは先ず、オーリとモウルのことを、打ち合わせどおり「仕事仲間です」とおばさんに紹介した。この三人で人捜しの仕事を請けて北へ向かっている、と簡単に近況を報告してから、ウネンは、十年前にどういういきさつで自分がヘレーに引き取られるに至ったかを、あらためておばさんに問うた。
 最初は言い渋っていたおばさんだったが、ウネンが「母さんが、ぼくに隠れて自分だけ食事をしていたことは、知っていました」と告げるに至って、「ああ」と深く嘆息して、椅子の背にがくりと身を沈めた。
「そうかい、知っていたのかい……」
 おばさんは、泣くのを我慢しているかのように鼻の上に皺を寄せ、静かな声で話し始めた。
「なんとかしないと、このままだとあんたは死んじまう。そう思ったんだけどね、でも、あたし達にはあたし達の生活もあるし、ええと、ほら、やはりよそ様の子供のことだから、何かとややこしいことになるのも困るし、って、家族の皆にも釘を刺されて、それで、せめてパンぐらいならあげられるかな、ってね……」
 ぽつりぽつりと吐き出される言葉は、十年の隔たりを感じさせないほどに、切々としていた。
「助けというほどの助けもできず、こんなの、あたしの自己満足に過ぎないんじゃないか、って毎日悶々としててね。だから、あのお医者先生がやってきた時は、天の助けかと思ったんだよ」
 おばさんの話にヘレーが登場した瞬間、オーリとモウルの気配が鋭さを増す。
「近所のおばさんの言うことは聞けなくても、お医者先生の言葉にならあんたの母ちゃんも耳を貸すんじゃないか、って思ったんだよ。……まさか、あんたを引き取ってくれるなんて、夢にも思わなかったけどね――」
  
    * * *
  
「これ食べて、外で待っておいで」
 農婦は水桶を抱えた少女にパンを一つやると、旅の医者を家の中へといざなった。これからする話を、この痩せ細った少女に聞かせたくなかったからだ。
 農婦の意図を察したか、医者も神妙な顔で彼女に従った。旅の荷物を部屋の隅に置き、テーブルに着く。
「あの子には、成長に必要な――いいえ、生きていくのに必要な栄養が、明らかに足りていません。このまま放っておけば、大変なことになる」
 怒りを滲ませた医者の言葉に、農婦は思わず唇を噛んだ。
「あの子は、そこの坂の下の小屋の子だよ。若い母親と二人きりで住んでいるんだ」
「親戚、というわけでもないのですか」
「ああ。そういう意味では、縁もゆかりもない子だよ。見るに見かねて、こうやって日に数時間、構ってやるだけの関係さ」
 農婦は大きく溜め息をついた。
「父親は行商人という話だが、姿を見たことは一度もない。母親は土地を持たない流れ者だし、貧乏なのは仕方がないさ。でもね、あの子の母親は、どうやら自分だけはそれなりにきちんとしたものを食べているみたいなんだ。肌のつやも、表情も言動も、あの子とは違って生き生きとしている。そりゃあ、働き手が身体を壊しちゃ元も子もないけどね、それでも……、それでも、だよ……」
 言葉を詰まらせ、しばし目を伏せたのち、農婦は、きっと顔を上げた。
「ねえ、先生。どうか先生のほうから、あの母親に一言、言ってやってもらえないかね。あたしなんかの言うことは聞かなくとも、お医者先生の言うことなら聞いてくれるかもしれないだろ?」
 医者の唇が、強く引き結ばれた。
「あの子、一体何歳だと思う? 五歳だよ、五歳。隣町にいる三歳の孫よりも、背が低いんだ。一度、見るに見かねて食べ物を分けてやろうとしたのを、あの母親に見つかってね。そうしたら、『私の子を取らないで』って逆上されてね……」
 耐え切れずに目元を拭い始めた農婦に、医者が静かな声で「分かりました」と答えた。
「言ってくれるのかい」
「ええ。私で良ければ」
 ありがとう、と感謝の言葉を繰り返す農婦に、医者が、「それはそうと」と改まった調子で切り出した。
「あの子の名前、『ウネン』というのですよね。どういう由来でつけられたかご存じですか?」
 思いもかけない質問に、農婦は二度三度とまばたきをした。怪訝に思いつつも、医者の求めに応じるべく記憶を探る。
「確か……祈祷師がつけたって聞いたね。あの子が産まれた時に、神のお告げが聞こえたんだってさ」
「ウネンエンデバイナ」
 そう呟いた医者の眼差しは、真剣そのものだった。
「そうそう、そういう感じのことを言って、祈祷師がぶっ倒れたらしいよ。それで、『ウネン』って名前にしたんだってさ」
  
 最善を尽くします、と、医者が坂を下っていくのを、農婦は祈るような心地で見送った。それから、畑の脇の木陰に座り込んでいるウネンの傍へ行き、畑仕事に誘った。
 諦めと怯えに染まりきっているウネンの瞳に、か細いながらも光が入るのを見て、農婦は堪らず強く奥歯を噛み締めた。
  
 医者は、夕方になってようやく戻ってきた。ウネンの母親を引き連れて。
 母親の叱責を恐れてうずくまるウネンに、医者は優しく声をかけた。「大丈夫だよ」と、何度も頭を撫でながら。
「ウネン、お前は、今日からこの人と一緒に行くんだよ」
 母親の言葉を聞き、農婦がひたすら絶句していると、医者が、静かに、だが力強く頷いた。
「私が、彼女からウネンを預かることになりました」
「え? でも、ええと、あんた……」
「おそらく、こうする以外にウネンを助ける方法は無いでしょう」
 囁くように農婦に告げる医者の声には、怒りは一切感じられなかった。ただ深い哀しみだけが、そこにあった。
 きびすを返したウネンの母親の髪で、輝石で飾られた銀の髪飾りがきらりと光った。
  
    * * *
  
 おばさんの話が終わっても、しばらくの間、誰も何も言わなかった。夕刻を迎え翳り始めた陽光の中、この部屋だけが一足先に宵闇に呑み込まれてしまったようだった。
 大きな溜め息を皮切りに、最初に口を開いたのはモウルだった。
「君のお母さんの肩を持つわけではないけどさ。人は、苦しさが許容量を超えると、他人のことなんて構ってられなくなるからなァ……」
 それを受けて、おばさんも「そうなんだよねえ」と頷く。
「あんたの母ちゃんも、貧乏じゃなければ、優しい母ちゃんになれたんだと思うよ。実際、あんたがお医者先生と旅立ったあとは、随分と寂しそうにしていたからね。あんたのことを愛していなかったわけじゃないんだよ」
 そうそう、と二人が相槌を打ち合うのを遮るようにして、オーリが重々しく口を開いた。
「対等な人間同士ならば、そう弁解もできるだろう。だが、この場合、片方が年端もいかない子供で、もう片方はその親だ」
 テーブルの上のオーリのこぶしが、震えるほどに固く握りしめられる。
「親が子供を抱きしめてやらなければ、一体他に誰がその子を抱きしめてやれるというんだ」
 吐き捨てるように言い切って、それからオーリは普段にも増して不機嫌そうな表情で口をつぐんだ。
 おばさんが、少しきまりが悪そうに視線を落とす。モウルが、何か物言いたげに横目でオーリを見やる。
 ウネンは、そっと服の胸元を握りしめた。胸の奥が、まるで炎を呑み込んだかのように熱かった。
 ――一体、他に、誰が。
 母には母の言い分があったのかもしれない。だが、それでも、ウネンには母しかいなかったのだ。母に、抱きしめてほしかったのだ。
 そこまで考えて、ウネンは大きく息を呑んだ。薄暗さを増した部屋の隅に、寂しそうに佇む小さな孤影が見えたような気がしたのだ。
 耳元に、祈祷師の声が甦る。
『十にもならないうちに、実の親に妓楼に売られて……』
 それは、どのような別れだったのだろうか。仕方なくだったのか、それとも、厄介払いだったのか……。
「……母さんは、誰かに抱きしめてもらえてたんだろうか」
 自分の口からそんな言葉が出るなんて、ウネンは思ってもみなかった。
 ああ、と、おばさんが声を漏らした。
「そもそも、子供を生んだからって、すぐに心まで親になれるわけじゃないからねえ」
 しばし何かを懐かしむ眼差しを虚空へと投げ、それからおばさんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だから、あのお医者先生があんたを引き取るって言った時は、こんな若い男の人が大丈夫かね、って心配したんだよ。でも、聞けば、故郷こきょうに子供が一人いるって言うじゃないか。それなら、まあ、大丈夫かな、って思ったものさ」
 その瞬間、ウネンは我が耳を疑った。ヘレーに子供がいる、などということを、今の今まで聞いたことがなかったからだ。
「里を出た、って、子供を、置いて?」
 ウネンは茫然と口の中で呟いた。
「ん? 何か言ったかい?」
 屈託のない表情で、おばさんが問うてくる。ウネンは辛うじて「なんでもないです」と絞り出した。
 モウルが小さく舌打ちをして天井を仰ぐ。その隣でオーリが深く嘆息した。
  
「お話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
 ねぐらへ帰る鴉の声が、遠く、近く、聞こえてくる。茜色に染まる空の下で、ウネンは、一言一言を噛み締めるようにおばさんに礼を言った。「聞けて良かった、って、心からそう思います」
 おばさんは、しばしウネンを見つめると、すうっと目を細めた。
「あんた……、今は、本当に、幸せなんだね……」
 良かった良かった、と、もう何度目か知らぬ呟きを繰り返してから、おばさんはオーリとモウルの前に立った。
「あんたらも、この子をよろしく頼むよ!」
 お茶とパンの礼を言って、三人はおばさんの家をあとにした。