一体どれぐらいの高さがあるのだろう、長い長い階段を上りきったソリルの目に、広々とした船の背と、その中央に立つ小さな祠 が飛び込んできた。
ソリルは、真っ直ぐに神庫 の前へと行くと、まずは足で辺りの砂を払いのけ始めた。
やがて、直径ニメートルほどの砂だまりの輪郭が現れた。自然物とは思えない美しい真円形を前に、もう町長 達は文句を口にしなかった。「ここに出入り口があるんだな」と、一心不乱に円匙 で砂をかき出してゆく。
掘ることおよそ二十五センチ、ようやく出入り口 がその姿を現した。
ソリルは他の四人を下がらせて、扉の縁 に沿ってその表面を撫でた。直径十五センチほどの円い窪みを探り出し、溜まった砂の中の握りを時計回りに半回転させる。もう一箇所、更にもう一箇所、と、同様の握りを回し錠をあけてゆく。
「絶対、ドアクローザーは壊れてしまっているよね……」
溜め息とともに独りごちると、ソリルは等間隔に並ぶ五つの握りのうち、真ん中の握りに縄を結びつけた。「扉が勢いよく開 かないように引っ張っていてください」と男達に縄の端を手渡し、最後の錠を外した。
「あれ?」
「どうなさったね」
「長い間ずっと閉めたままだったから、固着してしまっているみたいです。ちょっと押してみますので、縄をしっかり持っていてください」
ソリルは穴の縁 にうつ伏せになると、扉を下方へと思いっきり押した。
船体に触れたところからソリルの身体に、扉が軋む音が直接伝わってくる。その音とは別にもう一つ、とても不吉な――
と、唐突に扉がガコンと重々しい音をたてて開 いた。
縄がぴんと張るや、扉の勢いに負けて、縄を括りつけた握りが砕け折れる。
ソリルは咄嗟に隣の握りを掴んだ。扉が壁に激突する衝撃で遺跡に負荷をかけることを恐れたのだ。
激痛が、ソリルの肩に走った。押し殺した悲鳴が、ソリルの口から漏れた。
厚さ二十センチはあろうかという巨大な円盤に引きずられて、ソリルの肩が、胸が、穴の縁 を乗り越える。このまま扉とともに落ちてしまう、というところで、扉は軋みながらその動きを止めた。子供の父親が、持っていた円匙 を扉の隙間にこじ入れ、辛うじて歯止めをかけたのだ。
「大丈夫か、あんた!」
肩の痛みに呻くソリルを、町長 が心配そうに助け起こす。
その傍らでは、二人の若者が、縄を別な握りに括り直して、そろりと扉を開いてゆく。
ソリルは唇を噛んだ。喘ぐように息を継いで、子供の父親を見上げた。
「すみません……この肩では、とても子供さんを助けには行けません……。あなたが代わりに行ってくださいませんか」
「え、しかし……」
深呼吸を一つ、ソリルは両目をきつくつむった。
「さっき、扉をあける直前に、聞こえたんです。ここのずっと下のほうで、何か硬い物にひびが入るような、不吉な音を。たぶん、もう、一刻の猶予もありません」
なんだって、と蒼白になる町長 の横で、父親がごくりと唾を呑み込んだ。
「分かった。方法を、道順を教えてくれるか」
ソリルが静かに頷いた。例の頭痛が、既に始まっているというのにもかかわらず。
「すぐ下にある扉は、今のとほぼ同じ仕組みになっています。五箇所あるハンドル……握りを、右回りに半回転させて錠をあけてください。こちらも、扉が壁にぶつかって遺跡が壊れないように、縄を……」
男達がテキパキとソリルの指示に従って動き出す。
ややあって、重い物が軋む音に続けて「開 いたぞ!」との声が少し下から響いてきた。
砕けた肩の痛みを、〈誓約〉の痛みが上回る。たまらず身をよじったソリルの上体が、町長 の腕から転がり落ちた。
「大丈夫か、あんた!」
「縦坑 を……下りていって……」
襲いかかる激痛の中、ソリルは身を折り頭皮に爪を立てながら話し続ける。
「扉……七つ目か、八つ目の……」
あまりの痛みに、視界が急速に狭まってゆく。まるで細い筒を通して外を眺めているかのように。意識が外界から遠ざかってゆく。
でも、もう少し、もう少しだけ。あの子を助けなければ。あの子は泣き虫だから、きっとひとりで泣いている。もうすこしだけ、おねがい、かみさま。
「扉は……握りを下へ倒して、扉は横へ……左へずらして……」
僅かに残った光が、恐るべきちからで叩き潰される。
その刹那、ウネンの意識は物凄い勢いで後方へ引っ張られた。
* * *
我に返ったウネンの視界に真っ先に飛び込んできたのは、ソリルの碧い瞳だった。いのちを失った無機物のような碧色に、ウネンの顔が映り込んでいる。
依然としてここは、ウネンがマンガスに連れてこられた塔の上だ。ウネンはここで、寝台に茫と座るばかりのモウルの姉と見 えたのだ。
「里の者には、生まれると同時に里長 によって術がかけられる。里が守り続けている古い知識を、里の外の者に漏らしてはならない、という〈誓約〉だ」
ウネンのすぐ背後から、マンガスの声がした。
「この術のおかげで、我々は里から出ても里での記憶を失うことはない。だが、逆に、恐るべき頸木を引きちぎり〈誓約〉を破ってしまった者は、里で培った全ての記憶を、人格を、ひいては正気すら失うことになる」
あまりにも衝撃的な内容に、ウネンは勢いよく後ろを振り返った。
十五年の歳月と辛酸を経たエレグの顔がそこにあった。
「ここにあるのは、かつてソリルだった抜け殻に過ぎない。そう、彼女は、私が愛したソリルは、もうどこにもいない!」
荒々しく言葉を床に叩きつけ、それからマンガスは呟いた。「彼女はただ、子供を助けたかっただけなのに」と、苦渋の声で。
「ソリルを治療してもらうために、私は彼女を連れて里へ帰ることにした。川隣の町まで戻ってきたところで、ボロゥに会った。嗣 ぎ手 候補の彼なら、彼女を助ける方法を知っているかもしれない、と思い、私はまず彼に相談した。
だが、彼から返ってきたのは『諦めろ』の一言だった。そればかりか、『里の神との〈誓約〉を破るからだ』と詰 られた。何も手立ては無いのか、と食い下がる私に、奴は『邪魔だ』と言い放った」
* * *
「邪魔だ、そこをのけ。俺は、逃げた嗣 ぎ手 を捜している最中なんだ。お前と無駄話をしている暇なんて無い」
ひとけの無い町外れ。思いもしなかったボロゥの言を聞き、エレグは知らず問い返していた。
「逃げた? 嗣 ぎ手 、って、ヘレーさんが?」
「ああ、そうだ。先日、里山でツェウさんが赤狼に殺されて、そのショックで少々情緒不安定になってしまったみたいなんだ」
ボロゥの口からは、俄かには信じがたい言葉が次々と飛び出してくる。エレグは驚きのままにボロゥに詰め寄った。
「あんな里の近くで!? 神は一体何をしておられたのだ!」
「滅多なことを言うな。神にだって目の届かぬ暗がりはあるのだ。目となり耳となりそれをお助けするのが、我々ノーツオルスの使命だろうが」
「だが、野獣の害についてはもう随分前から議論されていただろう。せめて、神庫 の上だけでも電気柵で囲めないか、と」
いにしえの技術による野獣よけの柵は、何十年、いや、何百年も前から多くの里人 によって求められていたと聞いていた。
「そんな危険は冒せない」
そのたびに里長 や控 え手 といった里の中枢を担う者達が、これと同じ台詞を繰り返しては却下していた、とも。
「神庫 を維持するつ い で でできるはずだ」
「神庫 の維持ですら、神の大いなる温情によるのだぞ。それ以上を望むなど、贅沢が過ぎる」
取り付く島もないボロゥの態度を目の当たりにして、エレグの不満が爆発した。
「お前は……お前達 は……、人と神のどちらが大切なんだ!」
「お前が言う『人』とは、人類という意味か」
「そんな話をしているんじゃない、ということぐらい、解らないか!」
肩で息をしながらエレグはボロゥを睨みつける。
ボロゥが、ついと視線を逸らした。
「そういう意味ならば、答えは『神』だ。決まっている」
ボロゥのこの言葉を聞いた途端、燃えるようだったエレグの頬がすうっと冷めた。
エレグは大きく溜め息をついた。そうして、無言でボロゥに背を向けた。
「おい、待て、エレグ、何をする気だ」
不安げな声とともに、ボロゥがエレグの肩を掴む。
エレグはボロゥを一顧だにせず、淡々と簡潔に言葉を返した。
「この馬鹿げた話を里の皆に教えてくる」
「馬鹿げた話だと?」
「ああそうさ。人類のためだと言いながら人の命を軽んじ、神の顔色を窺うばかり。お前達は知識というちからで、ただ人々を支配したいだけじゃないのか」
「それは違う!」
エレグはそこでようやくボロゥを振り返った。
「ソリルのことだってそうだ。彼女は、人として、目の前で死にゆく子供を助けようとしただけだ。それを……、神との〈誓約〉を破ったから当然の結果だと……、彼女が愚かだっただけだと、その一言で片づけるのか!」
ボロゥが、唇を噛んでエレグから顔を背けた。肯定の言葉も、否定の言葉も、何も返ってはこなかった。
再びふつふつと沸き上がる怒りを深呼吸で抑え込み、エレグは踵 を返した。
「どんな理由であれ〈誓約〉を破れば、里人 は全ての記憶を奪い取られる。ただ生命活動を行うだけの死者も同然となる。このことはきちんと皆に知らしめるべきだろう」
「駄目だ!」
ボロゥの腕が、エレグを羽交い絞めにした。
「そんなことをすれば、いたずらに神への不信感を煽り立てるだけになる。里を存続させるためにも、それだけはならん!」
「放せ! もう二度とソリルと同じような目に遭う人間を出さないためには、そうするしかないだろう!」
行こうとするエレグと、行かせまいとするボロゥ、二つの影が乾いた土の上でもみ合った。腕を掴み、振り払い、足をかけ、かけ返され、やがて互いに四 つに渡ったまま膠着状態へともつれ込む。
「……まさか、お前は知っていたのか?」
ふと浮かんだ疑念を、エレグは思わず口にしていた。「〈誓約〉を破ればどうなるのか、お前は知っていたのか?」と、震える声で繰り返す。
「お前が、里を出るなどと言わずに、大人しく俺と同じ嗣 ぎ手 の候補になっておれば、知れたことだ!」
「ソリルがああなったのは、僕のせいだと言うのか――!」
その瞬間、エレグの視界が真っ赤に染まった。
耳元で響く呻き声が、どこか遠くのほうから聞こえてくるような気がする。
生あたたかい液体が右手をつたってきて、エレグは我に返った。
ボロゥが地面に崩れ落ちた。
倒れ伏すボロゥを中心に、乾いた土がみるみる朱 に染まってゆく。
エレグは己 が手元に視線を落とした。脂で曇る短刀を、血の滴る手をじっと見つめた。自分でも驚くほど、胸の中は静まりかえっていた。
と、向こうのほうからボロゥの名を呼ぶ声が聞こえてきた。同時に、ヘレーを呼ばわる声も幾つか。おそらく、ボロゥ同様ヘレーを捜しにやってきた里の人間だろう。
「そうだ。ヘレーさんだったらなんと言うかな……ツェウさんは神にとって、守るに値しない存在だったと……」
エレグは、ボロゥのマントの裾で手と短剣についた血をぬぐった。ベルトの背中側にある鞘に短剣を戻すと、まるで何事もなかったかのように、その場をあとにした……。
* * *