三 半身
かち色の空を黒々と切り取って、木々が生い茂っている。
東の森を前に、サンは慎重に手綱を引いた。きわの木に繋がれている一頭の馬を見て、サンの眉がひそめられる。
「普通じゃねーんだよ、お前ら」
夜にこの森に入るなんて、およそ正気の沙汰ではない。
サンはひらりと地上に降り立つと、「疾走」から少し離れた木の陰に馬を繋いだ。そうして、自分もその傍らに姿を隠す。
「だからこそ、欲 し い わけだが……」
そう呟くと、サンはいつになく鋭い視線を黒い森へと投げかけた。
その、普通じゃない二人は、月の光も届かない真っ暗な森の中を、草をかき分けながらゆっくりと進んでいた。レイの腰の小袋に灯された魔術の灯りだけが、二人の足元をほのかに照らしている。
「懐かしいなあ……」
まるで外と時間の進み方が違うみたいだ。そうシキは感嘆の声を上げた。ここは全然変わらないね、とレイに微笑んでから、シキは何かに思い当たったように両眉を上げる。
「そうか……この雰囲気。前は解らなかったけれど、似てるんだ。魔術の気配に」
シキの言葉に、レイが驚いたように目を見開いた。自分達を包む空気がどこか肌に馴染むのは、湿気のせいだけではないということに、彼もまた気がついたのだろう。
いわれてみれば、この森が昔から人々を寄せつけなかったということについても、そこに何者かの大いなる意思が介在しているかのように思えてくる。まるで森全体が一つの生き物のような、そして自分達がその胎内にいるような、そんな気がして、二人はしばし足を止めると、どこか厳かな心地で頭上を振り仰いだ。
「……受け入れて、くれてるんだ、よね。私達を」
「……たぶん、な」
東の森は人を喰う。迷ったら二度と出られない。そうして最後は野獣の餌になるだけだ。……町の大人達は一様に口を揃えて、そう子供達に言い聞かせていた。だが、これまでシキもレイも、ここで実際に危険な目に遭ったことは一度としてなかった。
「なあ、シキ、まだ『木の声』って聞こえるのか?」
しみじみとそう問いかけてきたレイに、シキは少し大袈裟に胸を張ってみせた。
「聞こえるよ。……最近やってなかったけど」
そう言ってシキは、傍の木の幹に両手を広げてぺたっとはりついた。そのまま静かに目を閉じる。
木の葉が風にそよぐ音が、二人を包み込んだ。やがてシキは、ゆっくり目を開くと、少し驚いたような表情でレイのほうを向いた。
「レイ、今でもここに良く来るんだ?」
「まあな」
「なんで?」
「別に。なんとなく」
あっさりと話を打ち切られて、シキの眉がそっと翳った。
「それよりシキ、お前、なんでそんなことが解るんだ?」
シキは諦めたような笑みを浮かべると、溜め息一つ漏らしてから、静かに話し始めた。
「木がね、私に久しぶりって。でも、レイにはお帰りって……」
「そんなことまで『聞こえる』のか?」
「なんとなく、だけどね」
初等学校に入学するまでは、シキもレイと一緒に家事や勉強の合間によくここに来ていたものだった。せわしない日常からほんの少し離れて、誰にも邪魔されずに、二人して緑の木々の下でぼんやりと風に吹かれていた……。
レイと一緒に屈託なく転げまわった幼い日々、彼のことなら何だって知っているとシキは思っていた。あの頃のことが遙か遠く感じられるのは、自分自身のせいなのではないだろうか。ふとシキはそう強く感じた。足を踏み出さなければ傷つくことはないかもしれないが、それではいつまで経っても前へは進めない。シキは強く口を引き結んでから、心の中に仕舞い込みかけた諸々を思いきって口にした。
「ね、レイ、もしかして、今まで家を抜け出してた時ってここに来てた……?」
レイが軽く眉を上げた。
「……まあな」
「秘密特訓、とか?」
間髪を入れずに畳みかけるシキの勢いに呑まれたのか、レイは一瞬言葉を詰まらせて、……それから決まり悪そうな表情で顔を背けた。
「そんなんじゃねーよ。ただ、まあ、ここなら、誰にも余計な口を挟まれずに練習できるだろ?」
その応えを聞いて、シキはこれ以上はないというぐらいに顔を綻ばせた。突然の大輪の笑顔に、レイが一瞬息を呑む。
「ね、じゃあ、夜にいなかった時も?」
「あ……まあ、それは適当に」
「適当?」
「その、なんだ、大人の時間、ってやつだよ。人が気を遣って言わずにいるんだから、察しろよな」
そんなに度々カレンさんと会ってたんだ、と拗ねつつも、つい「大人の時間」について具体的な想像を張り巡らせそうになり、シキの両頬は一気に熱くなった。慌てて首を振って余計な映像を頭から振り払い、大きく深呼吸をする。
もう一度息を吸って、吐いて、それからシキは意を決したように顔を上げた。真っ直ぐにレイを見つめると、もう二十日間も胸の内でくすぶっていた問いを、訥々と吐き出した。
「レイが、ダン達と、酒場で乱闘したって聞いたけど、それは……?」
ダンの名前を聞いたレイの顔が、険しくなる。
やがて、ふう、と肩の力を抜いて、レイは口を開いた。
「あの時、隣のテーブルにいたあの野郎が笑えねぇ冗談言いやがってさ、酒も入ってたし、俺、カッとなってさ」
「ダンと一緒に暴れたんじゃなくて?」
「まあ、確かにそうとも言えるけどさ、俺は奴と喧嘩したんだよ」
そう言って、レイは傍の木にがっくりと寄りかかった。
「幸い、大した怪我人は出なかったし、リフのおやっさんも、全部ダンが悪いって言ってくれたし、でもさ、なんつーか……、やっちまったよなあ、俺」
予想外の話の展開に目をしばたたかせるシキを横目に、レイが頭を抱えて嘆息した。
「前から、あいつ、事あるごとに俺に絡んできてて、鬱陶しかったんだよな。まあ、あいつも始終悪いことしてるわけじゃないだろ? 普段とか、あいつに話しかけられたりしたら普通に受け答えしてたから、御しやすいって思われてたのかもな」
シキの胸の奥が、燃え立つように熱くなった。レイが、ダンと同類などころか、その仲間ですらなかったという事実を知って。シキが信じていたとおり、レイはダンのように得意顔で他人に迷惑をかけ、それを武勇伝として人にひけらかすような人間ではなかったのだ……!
安堵するあまり言葉を詰まらせるシキの前で、レイはまたも大きく溜め息を吐き出した。
「酒場の乱闘で、どうも勝手に俺に共感を覚えたらしく、あいつ、旅人を襲うから魔術で眠らせてくれ、なんて、とんでもないことを頼んできやがったんだ」
そうだ、レイがダンの仲間ではないのならば、あの襲撃計画はなんだったのだろうか。シキはおずおずとレイの目を覗き込んだ。
ゆっくりと、力強く頷いてみせるレイが、とても頼もしく思えた。
「勿論、断ったさ。『全力で通報する。お前の親父が握り潰すなら、町中に大声で言いふらしてやる』って言ったら、あいつ、慌てて計画は取りやめにする、って逃げてったんだ。まあ、正々堂々と夜盗できるような技も力も頭もない奴らだから、大丈夫だろう、って高をくくってたら……」
「代わりに私に頼みに来た、と」
そこでレイがもう一度息を大きく吐いた。
「あいつ、俺をダシにしやがったんだろう?」
シキが小さく頷くと、レイは足元に視線を落とした。
「あの日、薬草屋に向かう時、ダンの腰巾着が一人、俺をつけていたんだけどさ、面倒臭くて俺はそれを放っておいたんだ。で、その……、朝になって……、お前に当番まで家に帰らねーって言っちまったし、どうやって時間を潰そうか悩んでたら、そいつがやたら馴れ馴れしく絡んできてさ、変だな、って思ってちょっと締め上げたら、俺をシキと会わせないようにダンに命令された、っつうだろ? 俺はもう、心臓が止まるかと思ったぜ……。
必死でお前を探して回ったが、見つからねーしよ。腰巾着の奴も、ダンがどこで誰を襲撃するのか知らされてなかったらしく、とにかくあちこち走り回ってたら、サランの警備隊が、ダンがお前をさらって森に逃げたって言うじゃないか。ま、そのお蔭で、あの隠れ家を思い出せてさ。見事正解で本当に良かったよ……」
「隠れ家のこと、どうしてレイが知ってたの?」
少し怪訝そうに眉をひそめれば、またもレイは溜め息をついた。
「タキさんところの仔牛が迷子になった時に森を探し回ってて、たまたまあの小屋から出てくるあいつらを見かけてさ。黙ってろって言うから、まあ、特に誰にも言わなかったんだが……、あー、くそっ! そういうあたりでも、なんか俺、同属扱いされてたんかもな……」
ひとしきり毒づいて、レイが再度頭を抱える。
不意に視界が滲み、シキは慌ててレイから顔を背けた。
全ては、杞憂だったのだ。レイは、何も変わっていなかった。責められるべきは、シキのほうだった。目を閉じ、耳を塞ぎ、ただ嘆くばかりで、レイと正面きって向き合うことを避け続けていた、シキのほうにこそ、問題があったのだ……。
そんなシキのことを、レイは以前から変わらず好きだと言ってくれた。今もこうやって、シキの問いかけに真摯に応えてくれている。
感極まって、シキは思わず傍らの木にしがみついた。目を閉じた拍子に、涙が一滴頬をつたっていった。
「おい、どうした、シキ」
無言で幹を抱くシキに、レイが首をかしげながら声をかける。彼の顔を正視できずに、シキは木のほうを向いたまま小さくぼそぼそと呟いた。
「? 聞こえないぞ」
「……良かった……。レイが私の知っているレイで、本当に良かった……」
消え入りそうなシキの声を耳にして、レイが一瞬息を詰めた。大きく息を吸い、それからゆっくりと吐き、そしてわざとらしいほど乱暴にシキの肩を自分のほうへと引っ張った。
「お前なあ」
そして、そのままシキの肩を抱きすくめる。「こういう時は、木じゃなくて俺に! 抱きつくもんだろうが」
さやさやと木の葉が頭上で囁いている。
シキはそっと手をレイの背中にまわした。レイもシキの腰をぐいと引き寄せる。それから、どちらからともなく、双方の唇が重ね合わされた。
最初は、果実をついばむように。ほどなくその動きは激しさを増し、シキの内部は更に燃え上がった。熱に浮かされるがままに、何度も何度もレイの名を呼ぶ。
シキの耳元で、レイが唸った。
「煽んな」
「煽ってないよ」
「急かすな」
「急かしてもないよ」
深呼吸の音に視線を上げれば、レイが苦笑を浮かべてシキを見つめていた。そうして、今度は額に、キス。
「もう少し向こうに、いい場所があるんだ」
額にかかる息の熱さに、シキの身体がびくんと震えた。
「来いよ」
シキの手を引いて、レイは暗い森の中を足早に奥へと進んでいった。
暗闇をしばらく進んだのち、ふと木々が途切れた所で、突然レイがシキを抱きかかえた。
「なっ、何?」
「ここは足元が悪いんだ。暴れるなよ」
地面に注意を払いながら、レイが慎重に草むらを進む。広場のような空間の中央、草の陰に横たわる石の台の上にシキをおろすと、レイは再び口づけをした。
より深く、より長く……、どれぐらいの時間、唇を合わせていたのだろう。レイがようやくそっと顔を離した。
「シキ、好きだ」
すっかり上気した眼差しで、シキもレイに向かって微笑んだ。
「……私も、レイ、大好きだよ」
「俺にはお前しかいない。お前は……本当に俺で良いのか?」
恐ろしいまでに張り詰めたレイの気配に呑まれて、シキは数度まばたきを繰り返した。
「……レイ、どうしたの?」
「良いのかダメなのかどうなんだ」
誤魔化しようのない問いかけに少し照れ恥ずかしくなって、シキは顔を横に向けた。そして小さく呟いた。
「……良いに決まってるじゃない」
月明かりが淡く辺りを照らす中、甘い吐息が、風に混じって木々の葉を揺らし続けた。